さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

人を呪わば穴二つ

よしをです。
他人を害する行為をすれば、自分も相手の恨みの報いをうけて仕打ちを受け、
相手と自分で、墓穴がふたつ必要になります。

2013年9月7日、
ブエノスアイレスでおこなわれた、国際オリンピック委員会(IOC)で、
2020年の東京オリンピック開催が決定した前日の9月6日、
韓国政府は、日本の8県の水産物輸入禁止を決定し、
世界中に情報を発信しました。
放射能被害に関して、科学的根拠は一切ないことから、
韓国政府の発表は、日本の「放射能汚染」の風評被害を広め、
オリンピック東京開催を阻止しようとする意図があったことは疑いありません。
われわれ日本人は、このことを絶対に忘れてはなりません。

結局、東京オリンピック決定の運びとなり、
韓国政府の目論見は、失敗に終わりましたが、
東京オリンピックに対するいやがらせは、なおも続いています。
それが、韓国が官民一体で訴えている、旭日旗禁止キャンペーンであり、
記憶に新しいところでは、VANKの放射能ポスター事件です。

VANK(VOLUNTARY AGENCY NETWORK OF KOREA)は、
韓国の正しい姿を世界に広めるために、1991年に創立されました。

VANKは、日本を主敵とし、慰安婦問題や日本海呼称問題、徴用工問題、
旭日旗禁止などに関して、ネット拡散や、ロビー活動を通して、
ディスカウントジャパン運動を推進しています。
かれらは、「民間外交使節団」を称していますが、
その実態は、韓国政府から活動支援をうけている、半官半民団体です。

VANKは今年1月6日、
白い放射能防御服姿のランナーが、松明をかかげて走るランナーに、
オリンピックのエンブレムや、日の丸などをあしらったポスターを、
ソウルの在韓日本大使館跡地のフェンスに掲示しました。
(同様のポスター画像は、フェイスブックにも掲載しています)。

同ポスターに対して、IOCは掲示禁止勧告をしています。
日本政府も反応し、菅官房長官は、このポスターに対して、
「政府として、ありとあらゆる手段で抗議している」、と語っていますが、
VANK側は、「政治的意図はない。表現の自由の侵害だ」、
などと反論して対抗姿勢をみせており、反省のコメントはありません。
意図的にオリンピックの意匠侵害をしておいて、
支援している韓国政府を含め、悪ぶれたところが一切全くないというのも、
反日無罪」の韓国ならではの異常さですが、
元はといえば、このような組織を野放しにしている、韓国政府の責任です。

韓国の嫌がらせは、武漢肺炎にも及びます。
集団ヒステリーは、かの国の特徴でもありますが、
韓国の中央日報は、
「日本政府は具体的な感染経路を特定できない」、
「すでに日本国内にウイルスが蔓延している可能性が高い」、
などと、日本政府の不手際をあげ諂い、
ウイルスの日本国内での感染拡大の危機を煽っています。

2月11日、韓国政府は、自国民に対して、
日本を含む6地域への渡航自粛を要請しました。
現時点で、日本国内の感染者が増えつつあることは事実ですが、
韓国とて、状況はほとんど変わらないはずです。
これも、武漢肺炎を悪用した、官民一体の、
東京オリンピックのディスカウントキャンペーンの一環であると考えるのは、
あながち考えすぎではないでしょう。

仏教の「自他一如」の教えは、
どのような命でも、決して単独で存在するものではなく、
すべての命は、相関わって、みんなつながっているといいます。
そのための調和や慈愛を育むことが、仏の教えの基本です。
国同士の関係においても、
非常時に、協力して困難に立ち向かうことは当たり前ですが、
韓国は、他国を非難することはあっても、協力する素振りは見えません。

他人の痛みを感じない生き方を、「我他彼此(だがひし)」といい、
他人の情けを受けられない人間は、
最終的に、自ら滅ぶしか道はないのですが、
仏教を棄てたかれらには、仏の教えは理解できないのかもしれません。
キリスト教にも、似た教えはあるはずなのですが…。)


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

ウイルスの孵卵器

よしをです。
SARSコロナウイルスやMARSコロナウイルス
そして、人類にとって最凶のエボラウイルスは、
いずれも、コウモリが自然宿主である可能性が指摘されています。

今回の新型コロナウイルス(個人的に武漢肺炎と呼んでいます)について、
複数の感染者から検出されたウイルスのゲノム(遺伝情報)の配列が、
コウモリのコロナウイルスと96%合致したという研究結果を、
カリフォルニア大学バークレー校の研究室が発表しました。

コウモリは、哺乳類の中にあって、特別頑強な免疫系をもっているそうです。
その強い免疫に対抗するため、ウイルスは、より強く進化します。
まるで薬剤耐性ゴキブリのようなものです。
コウモリは、より感染力と毒性の強いウイルスを増殖させる、
インキュベーター(孵卵器)の役割を担っているというのです。

カリフォルニア大学バークレー校は、
エボラウイルスと、マーブルグウイルスの疑似ウイルスを使って、
数種のコウモリと、アフリカミドリザルの細胞への感染の状況を調べたところ、
アフリカミドリザルの細胞が、ウイルスに圧倒されて死滅する一方で、
2種類のコウモリの細胞は、異物を排除する免疫作用が働き、
ウイルスの侵入を防ぎました。

同大学のレポートは、
多くのウイルスがコウモリに由来することは、偶然ではないとしています。
強い免疫力を有するコウモリは、自らの細胞をウイルスから守る一方で、
免疫との戦いによって、強化されたウイルスは、
コウモリの体外に出て、ほかの宿主を探します。
そして、他の動物に取り付くと、宿主に壊滅的なダメージを与えるのです。

エボラ出血熱の場合は、まだ不明なことも多いのですが、
やはり、原因はコウモリであるといわれています。
アフリカでは、コウモリを食べる食習慣があり、
たとえば、素手で調理したり、充分に加熱されていない肉を食して、
ウイルスに触れて、感染するのだといいます。

2015年、西アフリカにおけるエボラ出血熱流行の最初の犠牲者は、
ギニアの2歳の男児でした。
男児はよく、コウモリの巨大なコロニーであった木の洞で遊んでいたといい、
食肉を原因としないエボラ感染の例として報告されています。

エボラ出血熱の場合、コウモリが中間宿主であるのは、ほぼ確実ですが、
コウモリ以外の野生動物の捕食による、感染例も報告されています。
1995年のガボン発の大流行のケースでは、
エボラウイルスに感染して死んだチンパンジーの肉を食べたことが、
最初の患者の罹患原因であったと結論づけられています。

なんにせよ、悪いのはコウモリではなくて、
不衛生な環境が、強毒性ウイルスを人間界に持ち込む原因なのです。
病死したサルを食べたり、
2歳児を、ジャングルのなかで遊ばせる未開ぶりや、
野生動物に素手で触れ、ろくに手洗いもしないような、
中国をはじめ、後進国の食品市場の不衛生さをみれば、
誰だって、危険な疫病発生の可能性を予想できようというものです。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

西成暴動の歴史

よしをです。
東京の山谷地区、横浜の寿町と並んで、
大阪市西成区釜ヶ崎(いわゆる「あいりん地区」)は、
日本有数のドヤ街として知られています。

「あいりん地区」では、1960年代以降、度々暴動が発生しています。
その数、なんと24回。

1961年8月に、最初の西成暴動が発生しました。
日雇い労働者がタクシーに轢かれた交通事故の処理をめぐって、
暴動に発展したものでした。
その後は、夜間作業の求人が少なかったことに端を発したもの、
立ち飲み屋の支払いをめぐるトラブル、
火事現場のやじ馬が暴徒化した例など、
ちょっとしたきっかけで、不満が爆発した例が多いようです。
1970年12月30日におこった第9次暴動では、
新左翼運動家が、この暴動に介入し、騒ぎを大きくしました。
このころには、左翼の過激派や犯罪者が、
西成に潜伏し、騒ぎを扇動する例が多くみられました。

第24次暴動は、2008年の6月に発生しました。
わたしは、ちょうど大阪への転勤を命じられ、赴任した直後でした。
つい、10年ほど前の出来事です。
この暴動は、飲食店の支払いをめぐるトラブルによって、
日雇い労働者が、警察に連行されたことが原因で発生しました。
テレビのニュースで、労務者や活動家、不良少年などが加わり、
数百人に達した暴徒が、車に放火し、西成署を取り囲む映像を見て、
わたしは大変大きなショックを受けました。
まるで終戦直後のような状景だと感じました。

当時、取引先の方と、この話題をしたところ、
「最近、暑いからかなあ」、と、
まるで、何事でもないように話をされたのが、印象的でした。

当時、大阪にいたころには、
地元の方からは、あのあたり(とくに環状線の外側)には、
行かない方がいいといわれていたものでした。
実際に、足を踏み入れたことはありませんが、
都市伝説のような、ホントの話がたくさんありました。

この地区にあるコンビニのトイレには、現在でも、
「便器に注射器を捨てないでください」という張り紙がしてあるといいます。
店内に、いくつものモニターを並べて、
公営ギャンブルのノミ行為を公然とおこなう店が並び、
路上で普通に覚せい剤が売られているとか、
路上売春婦の値段が500円からという、ルポライターの報告もあり、
現在でも、その無法地帯ぶりには、あまり変化はないそうです。

いまでも潜伏している犯罪者や活動家がいるでしょう。
記憶の新しいところでいえば、
リンゼイ・アン・ホーカーさん殺害犯の市橋達也受刑者が、
一時期、潜伏していたこともありました。

第24次暴動の後は、10年以上、西成で暴動はおこっておらず、
最近では、あのあたりは、外国人のバッグパッカーの宿になっています。
宿賃は格安で、数百円だそうですが、普通の日本人なら、
いくら安くても、こういう場所に泊まることは、想像できませんが、
バックパックをするような外国人にしてみれば、
もっと治安の悪い場所は、いくらでも知っているということで、
そんなに怖くないといったところでしょうか。
あるいは、物珍しさか。

かれらが、少しでも環境の浄化に役立ってくれるといいと思いますが、
なんにせよ、気になるのは、あの武漢肺炎の動向です。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

片頭痛と薬

よしをです。
洋の東西を問わず、
天才肌の人や、芸術家に、頭痛持ちが多いといわれています。
日本では、夏目漱石樋口一葉芥川龍之介後白河上皇織田信長
外国では、モーツアルト、ベートーベン、ゴッホピカソなどが、
頭痛の持病があったといわれている歴史上の人物です。

わたしも頭痛持ちで、緊張型と片頭痛の両方があり、
ふだんは、緊張型頭痛を発症することが多いのですが、
回数は圧倒的に少ないですが、
片頭痛が発症すると、症状は重くなります。
わたしに芸術の才能がないのは残念です(泣)。

日本人の片頭痛発症率は、男性5%、女性15%程度といわれ、
女性の方が、発症率が高いのですが、
男女いずれも、遺伝性がある可能性が高いといわれています。
わたしは、両親ともに頭痛持ちでしたから、
どちらかの体質遺伝の可能性があると思っています。

柳の木に鎮痛作用があることは古くから知られ、
紀元前400年ごろのギリシアで、
ヒポクラテスが、柳の樹皮を、鎮痛薬として使用した記録があるのですが、
19世紀になって、柳の木からサリチル酸を分離することに成功しました。
サリチル酸は、解熱鎮痛剤として用いられましたが、
副作用として、強い胃腸障害がありました。

1897年には、バイエル社のフェリックス・ホフマンが、
比較的副作用の少ない、アセチルサリチル酸を開発しました。
アセチルサリチル酸は、「アスピリン」の商標で発売され、
世界の鎮痛薬の分野で、唯一無比の地位を獲得しました。
第一次大戦後のアメリカでは、
禁酒法世界恐慌の影響による、社会全体のストレスから、
アスピリン中毒者(アスピリンエイジ)が増えるという現象も生まれました。

現在では、解熱鎮痛薬には、
ピリン系、非ピリン系、非ステロイド性抗炎症薬の3タイプがあり、
アスピリンは、非ステロイド性抗炎症薬です。
主流は、アセチルサリチル酸を含まない、非ピリン系薬です。
胃腸への負担が少なく、空腹時でも服用でき、
子どもにも処方できるのが特徴です。
アスピリンの系統だと、ボルタレンが一番強力な頭痛薬ですが、
医師の診断がないと処方できません。

片頭痛になった人でなければ、その苦しみはわかりませんが、
ありがたいことに、優秀な薬のおかげで、少しは苦しみが楽になります。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

鰹と鯛

よしをです。
鰹(かつお)は温かい海を好む回遊魚で、
春になると、イワシの群れを追って、太平洋の日本近海を北上します。
5月ごろには伊豆から房総沖に、9月には三陸方面に移動して引き返し、
晩秋までに紀州、四国沖を通過して、南シナ海へ戻っていきます。

北上する際に獲れた鰹を初鰹、南の海に戻る際に獲れた鰹を戻り鰹といい、
一般的に、初鰹は赤身が多くさっぱりとした味で、
戻り鰹は、脂がのっているとされています。

江戸の庶民というのは、初物が大好きで、
鰹が、「勝つ男」に通じることや、
戦国時代、北条氏綱が乗船する船に、鰹が飛び込んだのを吉兆とし、
戦いに勝ったという逸話があることから、縁起物として重宝されました。
ちなみに北条氏綱は、
引き出物には、かならず鰹節を使っていたといわれています。
「勝男武士」との語呂合わせだとか(暴走族みたいですが)。

「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」

江戸時代の俳人、山口素堂の句は、あまりにも有名です。
シーズン初日の初鰹は高価なもので、1尾1両したといわれています。
なかでも、初鰹の一番船は、1尾あたり3両以上にもなるというので、
伊豆沖で鰹を釣った船は、競争して、江戸の魚河岸を目指しました。
入荷初日以降は、急速に値が下がるのですが、
見栄はりの江戸っ子は、あえて、初日に買うことを粋としました。
なかには借金をして、初鰹を入手するケースもあったといいます。

鎌倉時代以降、武士階級が台頭すると、その姿形が好まれ、
「めでたい」との語呂合わせや、赤色を貴とする仏教の影響も加わって、
いつしか、鯛は魚の王様と呼ばれるようになりました。

京や大阪では、むかしから白身魚を重視する傾向があり、
水揚げ高も圧倒的に西日本が多いため、
鰹よりも、鯛が、季節ものの代表として考えられていました。

春に獲れる産卵期直前のメスは、桜鯛と呼ばれ、
一年を通して、最も美味だといわれています。
なかでも、西宮の桜鯛は、古くからのブランド鯛で、
西宮神社の前で釣れた魚を意味する、「御前の魚」とよばれています。
その西宮神社には、鯛を抱えた恵比寿が祀られています。

六代目三遊亭圓生が、生前、最後に演じたのが、「桜鯛」という小咄でした。

衆院予算委員会で、立憲民主党辻元清美議員が、
モリカケ問題や「桜を見る会」などに関して、
「鯛は頭から腐る。…ここまで来たら頭を代えるしかない」、
と安倍首相を非難し、
首相から、「罵詈雑言の連続。無意味じゃないか」、とヤジを受けました。
立憲民主党の他議員からは、
「(首相の態度は)議会人としてあるまじき行為」、
「懲罰に値するような態度」、などという声があがり、審議が中断しました。

結局、総理も発言を撤回することになったのですが、
罵詈雑言かどうかはともかく、
辻元議員の態度が、下品であることは、間違いのないところです。
関西出身の辻元氏ですが、
桜鯛を愛でる優美な感性はお持ちでないように思います。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

風評被害発生装置

よしをです。
福島原発の処理水問題について、
経済産業省有識者小委員会が、トリチウム処理水の、
海洋放出もしくは空気中への放出に関する、優位性を承認しました。

「優位性の承認」とは、なんとも遠回しな表現ですが、
要するに、放出すべきだという見解が出されたということです。
これに対して、朝日新聞は、社説などで、
風評被害が生じる可能性がある」、
「政府が海洋放出ありきで臨めば、地元の反発を呼ぶだろう」、
などとする意見を述べています。

現在、世界中で稼働している原発は、
例外なく、発電で生じたトリチウムを、水で希釈して海中に放出していて、
一般的には、環境悪化の問題にならないとされています。
少なくとも、その現実について、マスコミは、報じるべきなのですが、
新聞やテレビで、報道を目にすることは、ほとんどありません。

朝日新聞のスタンスが歪んでいると思うのは、
風評被害が広がる可能性がある」、という一点の主張によって、
暗示的に、トリチウムの放出の危険を煽っていることです。
その結果、購読者に、
「政府や行政は、危険性について、ウソをついているかもしれない」、
という疑念が生じ、政府不信を拡大させるのが、
かれらの主たる目的です。
このような、マスコミによる煽り行為は、常態化していて、
モリカケ問題や、「桜を見る会」でも、同じことがおこなわれています。

反権力がマスコミの本分なのではありません。
本来、マスコミのあるべきスタンスは、対象が誰であっても、
恣意的な情報操作をせず、事実を可能な限り、客観的に伝える、
という中立な立場にあるべきです。
かつて、「ジャーナリズムの最大の役割は、権力を監視することだ」、
とうそぶいた、ニュースキャスターがいましたが、
われわれ国民が、いつそんな役割や使命を、
マスコミに委託したというのでしょうか。
驕りもはなはだしいと、いわざるを得ません。

ほとんどの日本のマスコミの実態は、
扇動的な煽り行為を取り除けば、
「真実」という、容易に近づきえない言葉を、やすやすと発するくせに、
解決策を示すでもなく、ただ、もっともらしく眉をひそめて、
憂慮する姿を見せるだけの存在なのです。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

万人恐怖

よしをです。
室町幕府4代将軍足利義持が危篤に陥り、後継ぎを決めずにいたため、
幕府は混乱しますが、管領畠山満家らのはからいで、
石清水八幡宮のくじによって、
義持将軍の4人の弟のうちから、跡目を決めようということになりました。
実際には、次代将軍は、聡明で知られる義教に決まっていて、
くじびきは出来レースだったという説も根強いのですが、
くじの結果、当時、天台座主であった足利義教が、
還俗して、5代将軍に指名され、それを見届けて義持は没しました。

ときもおり、称光天皇が危篤になり、
将軍家同様、後継者が決まらない状況にあって、
義教将軍の最初の大仕事が、この問題を解決することでした。
当時は、南北朝の争いがようやく終結したところで、
皇統の争いが再燃する可能性がありましたが、
義教は、後花園天皇を即位させて、崇徳上皇の系譜に皇統を戻し、
朝廷の納得のいく決着をみることができました。

義教の目標は、父親の足利義満時代の、幕府の権威を取り戻すことでした。
義満がおこなったように、富士山を遊覧し、勘合貿易を復活し、
将軍自らが政治を主導するために、御前沙汰を採用しました。
軍政においては、将軍の親衛隊である、奉公衆を組織しました。

義教は、古巣の延暦寺にも容赦ありませんでした。
弟である足利義承を天台座主にし、押さえつけようとしますが、
延暦寺は反発し、
反対勢力である、ほかの寺院を焼き討ちする始末でした。
義教は、自ら軍勢を率いて延暦寺を包囲し、一旦は武装解除しますが、
翌年には、延暦寺鎌倉公方足利持氏と密通し、
義教に呪詛をかけているという噂が流れると、
激怒した義教は、六角氏と京極氏に命じて、
比叡山兵糧攻めにし、火を放ち、
延暦寺からの和睦の使者を斬殺して、延暦寺の力を封じ込めました。

鎌倉公方足利持氏の、反抗的な態度に激怒した義教は、
持氏の討伐を命じました。
持氏は、降伏し、剃髪したにもかかわらず、義教は許さず、
一族もろとも処刑してしまいました。

いつしか、義教は恐怖の魔王と恐れられるようになりました。
大和では、南北朝の争いが再燃して有力国人同士の騒乱が起こり、
義教は力づくで解決を図りますが、大和はカオス状態になります。

義教は朝廷からの印璽を受け、次々とトラブル処理に向かいますが、
猜疑心にかられて、独裁制を強めていきました。
その苛烈な姿勢は、日常生活にも及びました。
料理がまずい、酌の仕方が悪い、儀式の際に笑顔になったなどの、
些細なことで、近習の者を殴打したり、罵倒したりといった、
粗暴な振る舞いがみられました。
後崇光院の日記「看聞日記」は、義教の恐怖政治について、
「万人恐怖、いうなかれ、いうなかれ」、とつぶやいています。

義教の最期は、あっけないものでした。
有力守護大名の赤松満祐が、義教を自宅に呼び寄せ、
居並ぶ大名と共に、猿楽を鑑賞しているところ、殺されてしまったのです。

義教の弱点は、理想を求めるあまり、リアリストでありすぎたことでした。
単純にいえば、厳しすぎて、人気がなかったこと。
残念ながら、経営者としては失格の部類に入るでしょう。

足利義教の生き様は、のちに織田信長にもヒントを与えたとされています。
義教が赤松満祐に討たれたのは48歳、
信長が明智光秀に討たれたのは49歳のときでした。
ともに比叡山を焼き討ちし、第六天魔王と呼ばれた二人は、
不思議にも、同じような経緯をたどることになりました。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。