さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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二人の縦横家

よしをです。

春秋戦国時代に活躍した縦横家に、蘇秦張儀がいます。

強国の秦に対して、他の6国が連合して対抗すべきと説いたのが蘇秦で、

張儀は各国に秦との同盟締結を説きました。

蘇秦の策を合従策、張儀の策を連衡策といいます。

 

一時期は蘇秦の合従策が実を結んで、

燕、斉、韓、趙、魏、楚の6か国同盟が成立し、

秦の侵攻をくい止めることに成功しましたが、

蘇秦が斉で政争に巻き込まれて殺されると、各国は張儀の連衡策になびき、

秦と個別に同盟を結ぶようになりました。

秦は遠国と同盟して、隣国を攻める遠交近攻策を採用して、

各個撃破をすすめ、ついに中国全土の統一を果たしました。

 

蘇秦は洛陽の生まれです。

若い頃、斉国で鬼谷先生という人物に師事して弁論を学び、

仕官先を求めて中国全土を遊説して回りました。

残念ながらどこからも仕官の口がなく、落剝して故郷に戻ると、

家族や親戚からも嘲笑されましたが、

蘇秦はこれを機に発奮して、自室に閉じこもって弁論術の研究に向かい、

眠気に襲われれば、自分の太ももをキリで刺して眠気を覚ますなど、

一年間の忍耐勉学の結果、ついに弁論術を習得しました。

蘇秦は各国に赴き、燕国と趙国との同盟を成立させると、

ついには秦に対抗する6国同盟を結成することに成功し、

自身は6国の宰相の地位に登りつめました。

 

蘇秦とともに、鬼谷先生のもとで学んだのが張儀です。

蘇秦は才能では張儀に劣っていましたが、

たまたま自分の策が認められたため、先に世に出ることができました。

蘇秦は合従策を成立させるために、

秦の軍隊を動かさないように工作しなければなりませんでした。

そこで目をつけたのが張儀でした。

張儀は秦の恵王に仕えることになり、次第に重く用いられるようになり、

宰相にまで登りつめました。

すると張儀は6国を歴訪して、

「合従策は蘇秦の口先だけで成り立っている砂上の楼閣にすぎず、そんなものに国の命運をゆだねるのは危険だ」と説き、

各国の対立をうまく操って同盟を無実化させていったのです。

 

秦と相対する6国は、共通の敵である秦に対抗するために、

盟約を結んでいましたが、隣国同士では個別の領土問題を抱えていました。

いざ隣国との戦争になった場合、

秦と結んだほうが有利になると考えていた王も多かったのです。

 

張儀は機敏に動き、巧みな弁舌で各国の国王の心の隙をついていきました。

張儀は連衡策を展開して合従策を破ると、蘇秦は亡命を余儀なくされ、

のちに暗殺されてしまいました。

 

かつて張儀が諸国に遊説していたころ、楚の宰相と酒を飲む機会があり、

そのとき、宰相の大事にしていた玉(ぎょく・宝石)が紛失してしまいました。

宰相は張儀を疑い、捕らえて拷問しましたが、張儀は白状しませんでした。

ほうほうの体で家に帰った張儀をみて、

妻が「貴方が遊説などしなければ、こんな辱めを受けずにすんだのに」と嘆くと、

張儀は「わしの舌はまだついているか」と返したといいます。

 

司馬遷史記のなかで、

張儀の策謀は蘇秦よりも甚だしかったが、世間が蘇秦のほうを憎むのは、蘇秦の没後、張儀が自分の遊説を有利にするために、蘇秦の悪行を暴露して回ったからだ」と書いています。

張儀の方が縦横家として非情に徹底していたということなのでしょう。

張儀を登用した恵王が死去し、武王が即位すると、張儀は遠ざけられ、

張儀は秦を離れて魏の宰相に迎え入れられましたが、1年後に死去しました。

 

合従連衡策は現代社会にも通じています。

それは中国をめぐる、米、日、印、豪らによる中国包囲網です。

中国はオーストラリアを内部から攪乱し、中印国境では局地戦を繰り広げ、

日本に対しては尖閣諸島への領海侵犯を繰り返すなど、

各個撃破を狙っています。

張儀が暗躍しているかどうかはわかりませんが、

中国が歴史を熟知していることは疑う余地がありません。

 

 

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もう半分

よしをです。

滑稽話や人情噺を得意にした五代目古今亭志ん生ですが、

ほかの落語家とは違い、陰惨な内容を滑稽に演じる独特のスタイルで、

黄金餅」や「藁人形」などの怪談話をよく演じていました。

 

江戸永代橋脇に小さな注ぎ酒屋を営む夫婦がいました。

この店に、行商の老人が毎晩やってきては、

「(一合枡に)半分だけお願いします」と、五勺だけ酒を頼み、

それを飲み終わると、「もう半分」といって、また五勺注文するという、

かわった酒の飲み方をしていました。

1合の酒を半分ずつ飲んだ方が、得をしたように感じるというのです。

 

ある日、老人が店に風呂敷包みを置き忘れて帰ってしまいました。

店主が中を確かめると、50両もの大金の包みが入っていました。

悪心をおこした店主は、慌てて風呂敷包みを取りに戻った老人に、

知らぬ存ぜぬの態度を貫きます。

老人は、「娘が吉原に身売りをしてつくった金だ」と明かしますが、

あきらめて店を出ていきました。

落胆した老人は川へ身を投げてしまいました。

 

しばらくのちに、酒屋夫婦に子どもが生まれました。

生まれた赤ん坊の髪は白髪で、あの老人そっくりの顔をしていました。

店主の妻は、ショックで寝込み、そのまま死んでしまいました。

店主は乳母を雇って子どもの世話をさせますが、次々と辞めてしまいます。

ある晩、店主が、赤ん坊が寝ている部屋の隣室に隠れて様子を見ていると、

丑三つ時になると、赤ん坊がすっくと起き上がり、

枕元の行灯の油さしから油を茶碗に注ぎ、うまそうに飲み干しています。

店主は、「おのれ爺、迷ったか」と叫ぶと、

赤ん坊は茶碗を差し出し、「もう半分」。

 

落語というのは面白い芸能で、結末は必ずしも勧善懲悪でもなく、

観客に想像させるという形をとって、

物語の結末まで語らないことも多いのです。

「もう半分」では、酒屋の店主が仏罰(あるいは神罰)を受けたことで、

観客の溜飲が下がるのですが、

救いようのないストーリーもたくさんあります。

 

「藁人形」では、女に金をだまし取られた托鉢僧の西念が、

女を呪い殺す目的で、七日七晩、油の煮え立つ鍋で、

密かに藁人形を煮るという秘術を使うのですが、

途中で甥の甚吉に発見されてしまい、願いがかないませんでした。

甚吉が、「おじさん、昔から藁人形には五寸釘が相場だ」というと、

西念は、「あの女は『ぬか屋』の娘だ。釘じゃあ効かねえ」。

 

結局、西念は金を取られただけという、救いようのない結末ですが、

この噺のテーマは、

「安易に他人を信用してはいけない」という教訓なのかもしれません。

 

 

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西郷隆盛は英雄か

よしをです。

西郷隆盛薩長同盟を結んで、明治維新を先導し、

江戸城無血開城させた明治維新最大の功労者ということになっています。

その後、明治政府に反逆して挙兵し、最期は賊将として自決に至ったため、

悲劇のヒーローとして、国民的な人気も集めています。

 

勝海舟は、「今まで、天下に恐ろしい者をふたり見た。横井小楠と西郷だ」

と語り、熊本藩の改革に才能を発揮した横井小楠と西郷を並べて、

最上級の評価をしています。

また、坂本龍馬は、「少し叩けば少しく響き、大きく叩けば大きく響く」と、

西郷の度量の大きさを語っています。

しかし、坂本龍馬の言葉というのは、

西郷は自ら動くことをせず、周囲に背中を押されないと動かない、

主体性のない人物だったという評価だとも受け取ることができます。

西郷らが主張する征韓論が否定され、西郷が下野したことが、

西南戦争への導火線となりましたが、挙兵するにあたって、

西郷は、いつまでたっても煮え切らない態度を取り続け、

周囲に懇願されて、ようやく総大将になったという経緯があります。

 

明治維新の日本において、最大のテーマであり、急務は、

一刻も早く、国内が一致団結し、外国勢力の脅威から脱することでした。

明治維新の中心メンバーが、天皇中心の国家建設を訴えるのに対して、

西郷は、あくまでも薩摩藩の利益意識だけで行動し、

このことが、のちに西郷の悲劇を生むことにもなりました。

 

西郷は、幼馴染であり、最終的に袂を分かれた大久保利通よりも、

むしろ非情なおこないをしています。

西郷は、大政奉還後、幕府を徴発して国内戦争を誘発するために、

「薩摩御用盗」とよばれるテロ集団を組織し、

江戸市中で強盗、殺人、強姦、放火と、あらゆる犯罪をおこないました。

テロ集団は、商家を襲って家人を殺害し、金を奪って軍資金にし、

江戸城二之丸にも放火しています。

 

薩摩の暴挙に対して、勘定奉行小栗忠順は義憤を抱き、

庄内藩を中心とした幕府軍を編成して、薩摩藩邸を焼き討ちすると、

西郷は、「これで先端開けたり」と興奮して叫んだといわれています。

さらに、薩摩藩の暴虐に憤った大坂の幕府軍薩摩藩の間で、

鳥羽・伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まりました。

国の将来ではなく、薩摩藩の天下強奪を意図した戊辰戦争は、

まったく無益な戦争だったのです。

 

板垣退助や山形有朋らが絶賛するなかで、

木戸孝允は西郷を評して、

「忠実、寡欲、果断な男だが、大局を見られないのが欠点だ」と語っています。

西郷隆盛は英雄だったのでしょうか。

それとも、優柔不断で、将来像を描けない三流の人物だったでしょうか。

人間は万能ではなく、その人物評価についても、

いろんな角度からおこなわれるべきでしょう。

 

 

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悲劇のエンジン

よしをです。

第二次大戦中、三菱が設計した零戦は、

優れた機動性により、緒戦では圧倒的な優位を保っていましたが、

防弾装備の不備や、急降下性能の弱点から、

次第に劣勢に立たされていきました。

当時の日本の戦闘機に搭載されていたエンジンは1000馬力クラスであり、

アメリカの強力な戦闘機に対抗する大出力エンジンが望まれていました。

 

中島飛行機が開発したエンジン「誉(ほまれ)」は、

零戦などに搭載されていた14気筒エンジン「栄(さかえ)」を

18気筒に強化して出力を向上させると同時に、軽量化を図りました。

アメリカのエンジンよりも一回り小さく、軽量であるも関わらず、

2000馬力を出せる、驚異的な高性能エンジンでした。

誉は昭和17年に生産を開始し、すぐに量産体制に入りました。

 

昭和19年6月、誉エンジンを搭載した高速偵察機「彩雲」は、

マリアナ沖のアメリカ機動部隊を偵察したおり、

グラマン戦闘機に襲われましたが、高速で振り切り、

昭和20年3月には、誉を搭載した「紫電改」部隊は、

最新鋭のグラマン戦闘機部隊と交戦し、圧倒的な強さを見せました。

戦後、紫電改アメリカに運ばれ、

アメリカ軍戦闘機と模擬空戦をおこなったところ、

第二次大戦中の最高傑作機とよばれたP51ムスタングを圧倒したという

記録があります。

 

その一方で、誉は高性能ゆえのトラブルが絶えませんでした。

ジェット燃料のない時代において、飛行機燃料はガソリンでした。

エンジンの排気量を大きくすると、

ガソリンを均一に燃焼させることが難しくなります。

ノッキングやバックファイアなどの不具合が生じやすくなり、

エンジンが高温になったり、ピストンの破損につながるのです。

 

また、戦況の悪化とともに、

鋼材や熟練工の不足、質の悪いガソリンという悪条件が重なって、

稼働率の低下や事故が増え、

誉は、本来の高性能を発揮できなくなっていきました。

 

戦後、中島飛行機はGHQによって解体されました。

誉を設計者した中川良一氏は、

戦後、プリンス自動車に入社し、名車スカイラインなどを設計しました。

昭和41年、プリンスが日産自動車と合併したとき、

当時の日産の川又社長は、「プリンスで最も欲しい人材は中川君だ」と、

話したといいます。

 

誉のエンジニアを担当していた百瀬晋六氏は、

戦後、富士自動車(現在の富士重工)に入社し、

リアエンジンバスや、スバル360などを設計しました。

かれの技術に対する姿勢や哲学は、「百瀬イズム」と呼ばれ、

富士重工の思想的財産として、受け継がれています。

 

もし、日本本土がドイツのように、ソ連軍に蹂躙されていたとしたら、

かれらのような有能な技術者は、丸ごと連行されていたでしょう。

右翼的とか神秘主義的だという勘違いをされたくないのですが、

戦後、幸いにも、優秀な頭脳を失うことがなかったのは、

日本が目に見えない力で守られている証拠なのだと確信しています。

 

 

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経済制裁は静かにすすむ

よしをです。

韓国は官民一体となって日本製品不買運動を繰り広げ、

徴用工をめぐる裁判で日本企業に賠償を命じ、資産を凍結するなど、

あらゆる手を使って反日運動に熱をあげています。

 

もし日本企業が韓国から手を引いたら大変な事態になるはずですが、

かれらにはほとんど危機感がないように見受けられます。

韓国の政治家や企業のトップが楽観的なのは、

日本企業との数十年にわたる関係性や人間関係を重視しているからです。

要するに、日本政府と日本企業は別物だという考え方をしているのです。

「安倍や右翼は嫌韓だが、ほとんどの日本国民は親韓」といった類いの、

韓国の一般国民の思考回路と何ら変わるものではなく、

われわれにしてみれば、勘違いも甚だしいといわざるを得ません。

 

トヨタ、ホンダ、日産の自動車各社傘下の部品会社は、

長らく韓国企業の顧客でしたが、

最近、取引先を韓国企業から台湾やベトナムにシフトしはじめています。

韓国では、金型、メッキ、溶接などの部品加工会社は

国内の製造業売上の10%を占め、「根幹産業」と呼ばれていますが、

韓国の経済紙の記事によれば、

このままでは、年末までに根幹産業の30%が廃業、倒産する可能性が

あるとされています。

 

ある日突然、国家間の条約に反して日本企業の資産が差し押さえられ、

日本製品不買運動が繰り広げられているような国において、

ビジネスの継続を是としない企業が増えるのは当然のことであり、

今後の両国間の動き次第でさらに状況が悪化する可能性があるなか、

韓国国内の工場を閉鎖し、日本人駐在員や現地従業員を減員し、

予定されていた投資をキャンセルするのも当然の動きです。

 

日本政府は中国国内にある日本企業の生産拠点の、

日本国内や東南アジアへのシフトを支援しています。

経産省は、その第一弾として、

医療用品メーカーへの補助金供出を決定しました。

一連の武漢肺炎対策において、

マスクや防護服などを中国頼みになっていたことの反省なのでしょう。

日本政府はようやく、

敵性国家に生命線を握られていることの危うさに気づいたのです。

 

韓国紙は日本政府によるチャイナリスク回避として、

他人事のように伝えていますが、

この動きは「脱中国」ではなく、「脱中韓」なのです。

中国から撤収した日本企業は韓国には向かわず、

日本政府が推奨する東南アジアへのシフトがすすむという事実は、

日本政府だけでなく、日本企業が台湾やベトナムを友好国と認識し、

韓国を準敵性国家と認識していることの証左なのです。

 

これが日韓関係崩壊の本当の意味です。

菅総理は一切妥協しないでしょう。

日本の政治家や日本企業は黙して多くを語らぬまま、

国家間の信頼関係が崩壊した相手国とのビジネスを維持することは

難しいと判断し、

日本政府が制裁をするしないに関わらず、取引は自然に縮小していきます。

おそらく、韓国政府はこのことの意味を理解していないのです。

 

 

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漢字文化圏

よしをです。

漢字文化を共有している国は、

中国、台湾、日本と、南北朝鮮とベトナムがあります。

しかし、現在、実際に漢字を運用しているのは、中国、台湾、日本だけです。

日本では、漢字は4~5世紀ごろ、大陸から伝わりました。

古事記日本書紀も、それぞれ漢字によって記述されています。

その後、「かな」の発明により、

日本の文字表記は、漢字とかなの併用でおこなわれています。

 

ベトナムでは、1945年まで公式の表記文字として、

漢字が使われていましたが、残念ながら、現在は廃止されています。

 

1802年にグエン朝が全域を統一するまで、

ベトナムでは、北部、中部、南部に、別々の王朝が並立していました。

秦の始皇帝の時代から、北部ベトナムは、

北属期とよばれる中国王朝の支配下にあり、

紀元前200年ごろ、漢王朝が漢字を持ち込みました。

その後も、長く中華帝国の従属状態にありましたが、

北部ベトナムで独立王朝が誕生(李朝)し、

儒教や仏教、科挙など、中国文化を多く取り入れたことから、

漢字文化は本格的に広がっていきました。

 

1802年に、阮朝が北部、中部、南部を統一し、中央集権化をすすめました。

この時代にベトナムで使われていた文字表記は、

漢字と、日本のひらがなに当たるチュノムという文字との、

組み合わせによるものでした。

 

漢字が廃止されたきっかけは、1887年に、仏領インドネシアが成立し、

フランスの植民地に置かれたことでした。

フランス当局は、当初は、フランス語の公用語導入を検討しましたが、

その先立ちとして、クオック・グーという、

ラテン文字を起源とする、表音文字の普及に力を入れました。

この文字は、フランス人カトリック宣教師が、

ベトナム語の発音をアルファベット表記したのが起源だといわれています。

 

ベトナムの知識人や一般大衆から、

伝統文化である、漢字とチュノムを軽視するという反発がありましたが、

科挙においてクオック・グーの試験が加えられるなど、

フランス当局は、知識層にもクオック・グーを使わざるを得ない状況に、

追い込んでいきました。

そして、第二次大戦後になると、ベトナムでは漢字の使用が廃止され、

文字表記はクオック・グーに統一されたというわけです。

 

漢字とチェノム表記への回帰を理想とする、ベトナム人研究者もいます。

現在、ベトナム語には、

漢字起源の言葉が70%程度残っているといわれますが、

語源について知る人が、少なくなってきています。

日本語でいえば、すべてひらがな表記にしたのと同じ状態ですから、

同じ内容を記述するのにも、膨大なボリュームになってしまうし、

同音異義語の区別ができないので、語彙はどんどん減っていき、

文化レベルが低下していく可能性があると懸念されるわけです。

 

しかし、文化というのは、一旦、単純化の道を選んでしまうと、

複雑化の方向へ後戻りすることが難しいのです。

これは、漢字を捨て、ハングルを選択した南北朝鮮についても、

同じことがいえます。

 

漢字文化が継続しているのは、中台日だけになりました。

漢字の習得には、多くの時間がかかりますが、

その分、得るものが大きいことを、

われわれ日本人は身をもって知ることができます。

 

 

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呂布

よしをです。

三国時代、武勇絶倫の名を欲しいままにし、戦乱を駆け巡った呂布は、

数多い三国志の英雄のなかでも異彩を放っています。

呂布の人生は、裏切りの連続でした。

かつての主君である丁原董卓を殺し、

袁術に身を寄せますが、裏切って逃亡し、

袁紹に与力して、兵力1万の黒山賊を手勢の数十騎で打ち破りました。

その後、呂布は独立勢力を築いて、

1年以上にわたって曹操と激戦を繰り広げて破れると、

放浪の果てにたどり着いたのが、劉備が治める徐州でした。

 

ところが、ここでも呂布劉備を裏切りました。

呂布は、劉備の出陣中に城を奪うと、劉備曹操と組んで反撃に転じました。

劣勢に立たされた呂布は籠城の末、ついに降伏しました。

がんじがらめに縛られて曹操の前に引き出された呂布は、

絞首刑により、生涯を終えました。

生年も不詳につき、死んだ年齢もわかっていません。

 

実は呂布漢民族ではありません。

かれは、五原(現在の中華人民共和国モンゴル自治区)生まれの、

騎馬民族出身なのです。

記録には出てきませんが、中原(中国の中心)周辺には、

チベットツングース、ペルシアなどの多彩な異民族がいました。

秦、前漢時代に中原の北方を脅かしていたのが、

匈奴(モンゴル系など諸説あり)でした。

統一国家を築いた匈奴は、やがて南北に分裂し、勢力が衰えると、

モンゴル系(あるいはトルコ系)の鮮卑が頭角を現してきました。

呂布のルーツは、この鮮卑であったと想像しています。

 

弱肉強食の遊牧民社会において、裏切りは日常茶飯事でした。

親兄弟や親戚でも、妨げとあれば殺しても当然であり、

その反面、圧倒的な強者には従うというのが、草原を生き抜くための知恵です。

呂布の行動には、遊牧民の性質が色濃く反映しているといえるでしょう。

 

本来、定住地をもたない遊牧民呂布は、

戦いで得た領土であっても、簡単に手放してしまうし、

自分と同じ、五原出身の兵しか信用していませんでした。

ほかの英雄たちのように、漢王朝を復興するとか、天下を統一するといった、

明確な目標や志をもたず、刹那的に現在の欲求に従うまま、

ひたすら戦いに明け暮れ、裏切りを繰り返していました。

 

呂布の無軌道な行動は、諸将にとって認めがたいものでした。

それは、かれの出自からくるものとして、侮蔑の対象でもあったでしょう。

かれは常に孤独であり、他者から理解されることがありませんでした。

 

水滸伝」には、小温侯の異名をもつ、呂方という豪傑が登場します。

鎧や戦服を赤一色に統一し、赤い馬を駆って方天画戟を手にして活躍します。

「温侯」とは呂布が授かった地位であり、

方天画戟というのは、まさに呂布の得意の武器です。

呂方は、いわば呂布二世といった存在であり、

呂布に憧れていたことを表しています。

嫌われ者の呂布でしたが、少しは救われるようにも思います。

 

 

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