さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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聖徳太子の犬

よしをです。

日本書紀によると、

推古21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山を通りかかったところ、

飢えて瀕死の状態の異人に出会いました。

太子は、食物と自分の衣類を与え、

翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせると、すでに息絶えていたので、

丁重に葬りました。

またしばらくして、墓の様子を見に行かせると、死骸は消えていて、

衣服が畳まれて、棺のうえに置かれていました。

里の住民は、あの異人は達磨禅師の生まれ変わりに違いないと噂し、

聖徳太子は、自ら達磨像を刻み、祀りました。

これが達磨寺のはじまりとされています。

 

聖徳太子といえば、豊聡耳伝説が有名です。

一度に10人の人の話を聞いて理解し、的確な返答をしたというのですが、

おそらくは、抜群に記憶力が優れていたということでしょう。

また、聖徳太子の別名である、厩戸皇子の名の意味は、

馬小屋の前で生まれたという出生伝説のほか、

馬は耳聡い動物とされていたことが、その由来といわれています。

何にせよ、太子が非常に優秀な政治家だったことは確かでしょう。

 

熱烈に仏教に帰依したことなどから、聖人のイメージが強い太子ですが、

かつては、2度の新羅征伐を主導した武闘派であり、

皇位継承の争いや、蘇我馬子との政争を繰り広げたこともあります。

それらのことから、さらに仏教へのめり込んでいったのでしょうが、

苦悩の多い人生だったと思います。

 

貴人のおくり名には、それぞれ理由があります。

聖徳太子と同じ、「徳」の字をおくられた歴代天皇は、

その言葉の意味に反して、みな不幸な運命をたどっています。

孝徳、称徳、文徳、崇徳、安徳、順徳の6人の天皇は、

孤独死、投身自殺、流刑をうけるなど、悲惨な末路を遂げています。

聖徳太子の死についても、疫病死や自殺、謀殺など、

さまざまな説があるのです。

 

しかし、日本書紀には、

厩戸皇子斑鳩の宮で亡くなり皆悲しんだ」という、

いかにもあっさりとした記述があるだけですから、

どうしても、死因が公表できない事情を想像してしまうのです。

 

聖徳太子は犬を飼っていました。

おそらく白い犬だったのでしょうか、名前を雪丸といい、

言葉を話し、お経を唱えることができたと伝えられています。

 

雪丸の墓は、達磨寺にあります。

雪丸が臨終の際、死ねば本堂の東北隅に葬ってほしいと遺言を残し、

聖徳太子は石工に雪丸の像をつくらせました。

雪丸は、政敵の多かった、太子の無聊の慰めになったのでしょう。

 

 

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空白の一日

よしをです。

江川卓投手は、わたしが知るなかで最高の日本人投手です。

作新学院時代は「怪物」とよばれ、

完全試合2回、ノーヒットノーラン9回を達成しました。

 

高校3年のドラフトで、阪急に1位指名されると、

入団を拒否して法政大学へ進学し、

大学4年のドラフトでは、クラウンライターに指名され、

入団を拒否して、1年間の浪人生活に入りました。

 

翌年の1978年11月22日のドラフト会議の前日に、

江川卓は巨人と契約しました。

巨人の説明によれば、ドラフト会議の前日は自由の身分であり、

ドラフト外の選手としての入団契約が可能であるというものでした。

 

そんなバカな、というところですが、トリックが隠されていました。

ドラフト会議で交渉権を得た球団が、当該選手と交渉できるのは、

翌年のドラフト会議の2日前までとされていました。

また、当時のドラフト対象選手は、

「日本の中学、高校、大学に在籍している者」、

あるいは、「社会人野球の球団に所属している者」であり、

江川投手は、どの組織にも属していなかったため、

野球協約では、「ドラフト対象外」という解釈ができたのです。

 

野球協約の盲点でした。

しかし、巨人の行為を認めてしまえば、

ドラフト会議が無実化してしまう可能性があるため、

プロ野球連盟は、江川投手との契約を無効としました。

特定の球団が、どうしても入団させたい選手がいれば、

学校や会社を辞めさせて、1年間浪人させれば、

自由に入団させることができてしまいます。

 

巨人は、連盟の裁定に猛反発し、

翌日のドラフト会議をボイコットします。

当時の巨人軍監督の長嶋茂雄は、ドラフト会議の当日、

「寝耳に水だ。どうなっているのか?」と、記者に尋ねたといいます。

球団首脳から、なにも聞かされていなかったようです。

 

ドラフト会議では、阪神が江川投手を指名します。

コミッショナーは苦慮しますが、

強権発動で、江川選手は、一旦阪神と契約し、

すぐに巨人へトレードに出すように提案しました。

阪神としても交渉が長引くことを避け、

当時の巨人のエースであった、

小林繁投手と江川投手を交換することになりました。

 

小林投手は翌年、巨人戦8勝を含む22社を挙げ、

沢村賞も受賞しました。

一方の江川投手の成績は9勝に終わっています。

 

2年目の江川投手は16勝を挙げ、

最多勝最多奪三振のタイトルを獲りますが、沢村賞を逃しました。

翌年は20勝6敗で最多勝最多奪三振最優秀防御率最多勝率、

最多完封と、投手のタイトルを総なめしますが、

沢村賞に選出されたのは、18勝12敗の西本聖投手でした。

 

これらの結果は、

沢村賞を選ぶ担当記者が、江川投手を敬遠した結果でした。

しかし、これが、

ダーティのイメージがつきまとっていた江川投手への、

同情の声に変わります。

「いくらなんでも、この結果はないんじゃないか」、と。

逆に、プロ野球ファンによる

西本投手へのいわれのないバッシングに変わったのは皮肉であり、

西本さんにとっては気の毒なことでした。

 

現在、プロ野球に入団する選手は、一定の年数を経過すれば、

フリーエージェントの資格を得ることができます。

しかし、江川投手の時代には、そのような制度はありません。

高校卒業後、阪急に入団していれば、

300勝以上の成績を得られたと思いますが、

おそらく阪急は、引退するまで、

江川投手を手放さなかったでしょう。

 

空白の一日事件は、

フリーエージェントや、MLB挑戦を可能にするなど、

その後のプロ野球の改革につながったともいえ、

その意味では、江川投手は貢献をしたといえるでしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。 

鮭の殿様

よしをです。

出羽の国の大名・最上義光

伊達政宗の伯父にあたる人物で、最上家を繁栄させた名君です。

もともと最上家は羽州探題の斯波家の系統であり、

清和源氏の流れを汲む名門ですが、義光の二代前の時代に領地を失い、

伊達家の与力として保護されていました。

義光の父である最上義守が、伊達家の内乱に乗じて独立を果たしています。

 

最上義光は秀でて長身(一説に身の丈6尺)であり、武勇に優れ、

度量の大きい人物だったといわれています。

義光が目指したのは、

村上の国衆(天童、寒河江、上山、白鳥氏ら)を支配下に置くことでした。

織田信長に書状をおくって、村上の当主を僭称する白鳥十郎を、

山形城に呼び出して暗殺するなど、

戦国武将ならではの荒事もやっていますが、

敵対する相手に、義光は総じて寛容でした。

投降した国衆のなかには、鮭延秀綱という名将がいました。

鮭延らの国衆を与力に加えて、村上地方を平定した義光は、

さらに、敵対する大宝寺氏の内乱に乗じて、庄内地方を征服しました。

 

最上義光は人情に厚いことで知られていました。

国衆である由利一族の大井五郎という男が横暴だとして、

討ち果たすように頼まれると、

五郎を、居城の山形城に呼び寄せましたが、

5~6人前の食事を平らげる五郎の豪壮ぶりに感銘して、

暗殺計画を打ち明け、

褒美をとらせて帰らせたというエピソードが伝わっています。

 

また、義光が伊達政宗に嫁いだ妹の義姫を溺愛していたことが、

残された手紙のやりとりによって、垣間見ることができます。

最上と伊達との抗争が勃発した際には、

義姫が取りなしのために山形に訪れ、

義光の幼い子ども(駒姫か?)が義姫に戯れたのを見て、

義光は涙を流したと伝えられています。

 

最上義光の娘・駒姫が豊臣秀次に見初められて側室となりました。

秀次が謀反の疑いをかけられた際、義光は助命嘆願しますが、

受け入れられず、秀次は切腹し、一族全員が処刑されました。

駒姫もまた連座して処刑されたことで、義光の悲嘆は重く、

義光の正室も、ショックで自殺してしまいました。

この事件によって、

義光の秀吉への憎悪は、決定的なものになったといわれています。

 

義光は関ケ原では東軍に与し、以後は領内の繁栄に尽力しました。

日本海の要衝である酒田港の整備をおこない、最上川の難所を開削し、

治水工事を推進して庄内平野の農業生産力を向上させました。

海運とともに、街道を拡張して流通を整備し、

城下町である山形の町の商業を殖産しました。

義光存命中は、領内で一揆はほとんど起こらず、

領民に対して寛容な殿さまであると、領外にも知られていました。

 

義光の晩年、嫡男の義康が暗殺されるという事件が起こりました。

原因はわかっていません。

「親子の仲がよくないので和解したい」と記した、

義康の遺品の手紙を読んで、義光は号泣していたといわれています。

次男の家親が家督を継ぎますが、さらに最上家に悲劇が襲いました。

義光の没後、家親が急死すると、家内で後継者をめぐる内紛が発生し、

最上家は改易されてしまったのです。

 

最上義光には「鮭様」という異名があります。

読んで字のごとく、鮭が大好物で、領内で鮭が獲れると大喜びし、

徳川家康への贈り物や、伊達政宗の手紙の返礼や家臣への下贈として、

塩鮭を贈るなど、最上義光の贈答品といえば、鮭と決まっていました。

 

もっとも、山形県史によれば、最上義光は、鮭のほかにも、

鯛やクジラを好んだという記述もあり、

単にグルメな殿さまだったのかもしれません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

インドネシア義勇軍と日本人

よしをです。

1600年頃、東インド会社がジャワ島に進出し、

オランダ人によるインドネシアの植民地時代が始まりました。

1619年には、オランダ人はジャカルタを占領し、

この地をバタヴィアと名付けました。

 

20世紀になると、アジア全体で民族独立運動が盛んになりました。

1928年、この地域の独立を求める人びとは、

オランダ領東インドのあらたな国名に、「インドネシア」を採用しました。

その後、太平洋戦争の1942年に、日本軍の侵攻によって、

オランダの植民地支配は、あっけなく崩壊したのです。

 

オランダの植民地政庁は、

インドネシアに対して、愚民政策を採用していました。

これは、西欧列強の植民地政策の基本的な考え方なのですが、

現地人を教育すると、社会の矛盾を自覚して、

宗主国の支配に反抗すると考えていたのです。

しかし、日本の植民地経営は、オランダとは、まったく違っていました。

 

日本の軍政権下では、インドネシア人に対する融和政策がとられ、

その後のインドネシアの将来に、大きな影響を与えました。

日本は、独立運動家の指導者スカルノを開放し、

イスラム教に対する制約を撤廃し、義勇軍を組織して訓練し、

子どもの教育においては、オランダ語を廃止するとともに、日本語を教え、

道徳を教え、現地の歴史を教え、インドネシア語を教えました。

 

太平洋戦争終戦後、インドネシアには、再植民地化を実現するために、

イギリス軍とオランダ軍が侵攻してきました。

当時は多くの日本兵が現地に取り残されていましたが、

あるものは連合軍の捕虜になり、あるものは捕虜になることを選ばず、

ジャングルや村に潜伏しました。

 

オランダ軍と、蜂起したインドネシア義勇軍との戦いが始まりました。

この独立戦争には、残留日本兵も参戦しています。

のちに組織されたインドネシア日本人会の資料によると、

独立戦争に参戦した旧日本兵は約900人いました。

そのうち、530人が戦死もしくは行方不明となるなど、

激戦の様子を物語っています。

独立後は、生き残った日本兵324人がインドネシア国籍を取得し、

残りの45人が日本に帰国しました。

 

日本兵は、どうしてインドネシア独立戦争に加担したのでしょうか。

終戦当時、現地は混乱していました。

連合軍の捕虜となった日本兵は一旦、武装解放されて収容されましたが、

オランダ軍から武器を渡されると、独立義勇軍と対峙させられました。

アジアの解放を目指していた日本軍将兵にとって、

連合軍の走狗となり、義勇軍インドネシア民衆を苦しめることは、

慙愧に絶えず、屈辱に感じたことでしょう。

かれらの一部は、オランダ軍から脱走して、義勇軍に加わりました。

 

連合軍の捕虜にならずに、武装を解かず、潜伏していた日本兵もいました。

輸送船は不足しており、日本への帰国が容易でなかったことに加えて、

もし捕虜となれば、連合軍キャンプに収容され、

強制労働に従事させられるといったニセ情報にも惑わされ、

帰国を断念し、あるいは、敗戦して荒廃した祖国の将来を悲観して、

あるいはインドネシア独立を勝ち取るロマンのため、

900名の残留日本兵が、インドネシア義勇軍に加わったのです。

 

歴史を美化するつもりはありません。

ただ、歴史上の事実として、

インドネシアの独立に、日本人が多く関わっていることについて、

現地の人びとが、その記憶を深く留めており、

日本や日本人に対する親近感を抱いてくれているにも関わらず、

われわれ日本人自身が、あまりに無知であることが、

残念でならないのです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

人間・孔子

よしをです。

孔子(孔丘)は、紀元前552年頃に魯(中国山東省)で生まれました。

貧しい母子家庭にあって、14歳で学問を志し、17歳で孤児となり、

27歳から魯の下役人として倉庫番や牛馬の世話係をしながら、

礼学を修めました。

魯国にクーデターがおきると出国し、諸国を転々としたのちに、

50代で祖国の魯の大司寇(裁判官)に仕官しますが、数年で辞職し、

その後は弟子たちとともに、ふたたび諸国を放浪して就職先を探しますが、

希望は叶わず、郷里で私塾を開いて弟子の教育をおこないました。

孔子の私塾には、最大で3000人の弟子がいたといわれています。

 

孔子は身長が216センチもある巨体で、「長人」と呼ばれ、

その容姿は、上半身は長く、下半身が短く、

背中は曲がり、耳は後ろのほうについていた(荘子)とされています。

さぞや、目立ったことでしょう。

孔子とは関係ありませんが、

わたしは昔、人混みの駅のターミナルで、ジャイアント馬場さんを見たことがあり、

200メートル先でも、それが馬場さんであることがわかりました(笑)。

 

没後、神格化がすすみ、超人化されていくのですが、

儒学の著作は、すべて後年、弟子が編纂したものであり、

孔子自身は、体系立った哲学を確立したわけではありません。

 

孔子は、宮廷儀礼や葬礼や祭儀に関する作法のエキスパートを称して、

諸国を回って就職活動をしていました。

自分自身の就職活動はうまくいかなかったのですが、

弟子のなかには、ちゃっかり役人に採用される者も出てきました。

孔子は、弟子にも嫉妬を隠さず、

役人になった弟子の帰宅が遅くなると、強く叱責し、

自らが認められないことに愚痴をこぼしたという逸話も伝わっています。

また、「礼で大切なことは、形式ではなく精神である」と教えながら、

「最近の礼の形式は、なっていない」と弟子を叱ったり、

荒くれ者に説法をしに出向いたところ、逆に論破されて逃げ帰り、

弟子が、ある国の領主に他国への戦争を進言すると、

周囲が驚くほど動揺して、慌てて弟子を止めるなど、

論語の「四十にして惑わず」が霞んでしまうほどの、

情けないエピソードも伝わっています。

 

孔子の評価されるべき最大の主張は、非暴力主義です。

論語を読むと、ところどころで矛盾に突き当たることも少なくないのですが、

非暴力主義の主張の徹底は、首尾一貫しています。

孔子もひとりの人間に過ぎず、

決して、聖人君主ではなかったかもしれませんが、

「世の中の為」を実践したことが、

孔子があれほど多くの人を集めた理由なのでしょう。

 

 

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戦争をおこさないための教育

よしをです。

湾岸戦争以来、集団的自衛権の問題がクローズアップされてきました。

曰く、「なぜ、いま参加しなければならないのか」といった趣旨で、

左派勢力やマスコミが大きな声を上げるなか、

「なぜ、いままでこの問題が放置されていたのか」という当然の疑問が、

新聞やテレビの主張を見渡しても、どこにも見当たらないというのは、

いかにも不思議な現象です。

本来であれば、公平をモットーとすべきマスコミが、

その実態が不健全であるさまを、晒しているように思います。

 

戦後70年が経過し、ほとんどの国民は、安全保障問題に関して、

あまりにも無関心であり、知識も乏しいように感じます。

自衛権確保のために武力を保有することと、

戦争を起こすことは、イコールではありません。

しかし、戦争反対や憲法改正反対を訴える勢力は、

国民の無知や無関心を利用して、極端な持論を展開しています。

そこで、集団自衛権が行使されれば日本は戦争に巻き込まれるといった、

極論が展開されても、なにも疑問を抱かず、

かれらの主張の不自然さを見抜けない人が、いまだに存在しています。

また、戦後教育が、国防だけでなく、

国体(国の在り方)に関する事柄や、国を愛することに関して、

タブー視していることが、多くの国民が口を閉ざす理由になっています。

 

永世中立国のスイスには、平和のイメージがあるかもしれませんが、

スイス憲法は、「軍隊は戦争の防止及び平和の維持に寄与する」として、

国民皆兵制度が敷かれています。

家庭の銃器保有率は高く、国民100人当たり24人が銃を保有し、

国のいたるところに核シェルターがあり、人口を100%カバーしています。

集団自衛権を放棄し、一国が単独で中立を守るためには、

このような準備が必要なのです。

 

左派政党やマスコミが、

「(敵対する)他国にも、話せばわかってくれる」といった手合いの、

ソフトな口調で語り掛ける一方で、

「軍隊を持てば、日本は戦争に巻き込まれる」と、恐怖を煽り続けるという、

硬柔を使い分けて、戦後の日本のリベラル言論がつくられてきました。

 

しかし、昨今の近隣他国を見渡しても、

南北朝鮮の、日本に対する不誠実で傍若無人な振る舞いや、

武力を誇示して覇権拡大を目論む中国の活動を目の当たりにして、

いくら真摯に接しても、相手によっては通じない場合があることを、

さすがのお人好しの人たちも、

身に染みて痛感し始めているのではないでしょうか。

 

必要なのは教育です。

国家の永続性や誇りは、国を愛することからスタートします。

世界中見渡しても、

自分の生まれた国を愛することをタブー視するような教育をしているのは、

悲しいことに、日本国だけです。

 

 

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ベーシック・インカムは可能か

よしをです。

ユニバーサル・ベーシック・インカム(UBI)は、

国民が最低限の生活を営めるだけの資金を、

国家が国民一律に支給するという制度です。

経済格差が拡大し、無人化や自動化といった労働環境の変化をうけて、

UBIは世界的にも注目を集めています。

 

すでに外国では社会実験がおこなわれています。

2016年にはスイスでUBIの導入について国民投票がおこなわれ、

フィンランドやオランダでは、小規模の実証実験がおこなわれるなどの

取り組みがされています。

イギリスやスペインは、UBIの検討や導入を発表していますが、

まだ現時点では、UBIを全面的に導入した国はありません。

日本では武漢肺炎の経済対策として、

全国民一律10万円の特別給付金が支給されましたが、

これは部分的なUBIの取り組みといえるかもしれません。

 

UBI導入のメリットはいくつかあります。

努力して収入を増やせば、その分豊かになるわけですから、

労働意欲は向上し、働き方改革もすすむと考えられます。

また少子化問題も解消する可能性があります。

 

以前、「子ども手当」の支給金額が親の収入によって違うのは

納得できないという話をしましたが、

平等を重視する日本社会では、一部の生活困窮者だけを支援する制度や、

収入格差によって支給金額に差をつける制度は不評です。

したがって、その点において、

UBIは日本社会との親和性が高い制度といえるかもしれません。

 

しかし、実際の導入については財源的に高いハードルがあります。

1回の特別給付金10万円の場合でも合計13兆円であり、

国家予算(約100兆円)の10%以上になりますから、

たとえば毎月10万円支給しようとすると国家予算を超えてしまいます。

 

以前、老後2000万円問題が注目されました。

老夫婦が生活を維持するためには、

年金以外に2000万円の貯えが必要だという仮説です。

このことにショックを受けた人も多かったと聞きますが、

わたしは不思議でなりません。

 

一般的なサラリーマンは60歳まで35年程度働いて、

65歳から年金を受給するわけですが、

平均寿命を80歳として、15年間年金を受給することになります。

35年間、給料のほんの一部を積み立てた分で、

現役時代と同程度の生活レベルを15年間維持するだけの

受給が得られることが現実的でないことぐらい、

常識で考えてもわかりそうなものです。

老後の生活は、年金だけで生活するために生活レベルを極端に落とすか、

年金以外の収入を得るか、貯蓄を切り崩すか、3つしか方法はないのです。

 

UBIの議論も、これと同じようなものです。

医療や生活保護、年金などの既存の社会保障サービスを削減し、

税制の仕組みを劇的に変化させて税収を増やさなければ、

制度を維持することができません。

かりに一律10万円のUBIが導入された場合、

年金を15万円支給していた人は5万円に減ることになるでしょう。

 

 

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