さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

大韓航空機爆破事件

よしをです。

1987年11月29日、

バクダッド発アブダビ経由ソウル行の大韓航空858便が、

アブダビからソウルへの飛行途中で爆破されました。

犯人は、日本の偽造パスポートを所持した、

北朝鮮籍の金勝一(蜂谷真一の偽名)と金賢姫(蜂谷真由美)の2人です。

858便はビルマ上空で爆破され、115名の乗客乗員全員が亡くなりました。

 

2人はアブダビで、同機から降りていました。

韓国当局は、搭乗名簿から、この2人の男女の犯行への関与を疑い、

日本当局にも、その情報が伝えられました。

日本大使館が男女のパスポートを照会すると、偽造であることが判明し、

2人が、バーレーンの空港に移動し、

ローマ行の飛行機に乗り換えようとしていたところを、

日本大使館関係者と地元警察に、身柄を拘束されました。

金勝一は逮捕直前に服毒自殺し、金賢姫は死にきれずに逮捕されました。

 

バーレーン警察から取り調べがおこなわれたあと、

金賢姫は韓国に引き渡されました。

長期間の取り調べの結果、金賢姫北朝鮮工作員であることを告白し、

日本人の拉致被害者から日本語を学んだことも話しました。

犯行の目的は、ソウルオリンピック妨害のためでした。

韓国の裁判所は、金賢姫に死刑を言い渡しましたが、

盧泰愚大統領は、政治的配慮から特赦し、金賢姫は韓国に亡命しました。

 

今年、大韓航空858便と推定される機体の一部が、

ミヤンマー沖の海底で発見されたという報道があり、

韓国与党の「共に民主党」の議員から、

爆破事件の背景に関して、再調査するべきという提案があがりました。

政権与党の一部の議員は、

この事件は、当時の韓国軍事政権のでっちあげであり、

北朝鮮は濡れ衣をかぶせられた被害者であると、真剣に主張しています。

さらに、これまで、機体を発見できなかったのは、

軍事政権の圧力があったからだとも語っているようです。

 

韓国の教科書検定には、政治の力が大きな影響を与えています。

今年3月から韓国の中学校、高校で使用されている歴史教科書には、

この大韓航空機事件をはじめ、

ラングーン事件や天安艦撃沈事件も、記述がありません。

北朝鮮のテロ行為を一切語らない一方で、

李承晩、朴正煕、全斗煥盧泰愚の軍事政権に関しては、

民主化運土を弾圧したといった記述が大きな割合を占めるなど、

あからさまに親北的な内容となっています。

いわゆる「漢江の奇跡」に関しても、

財閥による民衆の搾取のうえに成り立っているなどと、

マルクス主義全開の分析がされている教科書もあるといいます。

 

不都合な真実プロパガンダで消滅させるのは、この国の特徴ですが、

自国民の貴重な人命が失われたテロ行為を封印する行為は、

到底許されるものではありません。

なぜ、このような人権を無視した政権が成立し、

なおも高い支持率を維持しているのか、

日本人のわたしにとっては、謎が深まるばかりです。

 

日本では、北朝鮮による拉致事件を否定し続けた社会党社民党)は、

完全に支持者を失い、いまや絶滅寸前です。

これが正常な姿でしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

空白の一日

よしをです。

江川卓投手は、わたしが知るなかで最高の日本人投手です。

作新学院時代は「怪物」とよばれ、

完全試合2回、ノーヒットノーラン9回を達成しました。

 

高校3年のドラフトで、阪急に1位指名されると、

入団を拒否して法政大学へ進学し、

大学4年のドラフトでは、クラウンライターに指名され、

入団を拒否して、1年間の浪人生活に入りました。

 

翌年の1978年11月22日のドラフト会議の前日に、

江川卓は巨人と契約しました。

巨人の説明によれば、ドラフト会議の前日は自由の身分であり、

ドラフト外の選手としての入団契約が可能であるというものでした。

 

そんなバカな、というところですが、トリックが隠されていました。

ドラフト会議で交渉権を得た球団が、当該選手と交渉できるのは、

翌年のドラフト会議の2日前までとされていました。

また、当時のドラフト対象選手は、

「日本の中学、高校、大学に在籍している者」、

あるいは、「社会人野球の球団に所属している者」であり、

江川投手は、どの組織にも属していなかったため、

野球協約では、「ドラフト対象外」という解釈ができたのです。

 

野球協約の盲点でした。

しかし、巨人の行為を認めてしまえば、

ドラフト会議が無実化してしまう可能性があるため、

プロ野球連盟は、江川投手との契約を無効としました。

特定の球団が、どうしても入団させたい選手がいれば、

学校や会社を辞めさせて、1年間浪人させれば、

自由に入団させることができてしまいます。

 

巨人は、連盟の裁定に猛反発し、

翌日のドラフト会議をボイコットします。

当時の巨人軍監督の長嶋茂雄は、ドラフト会議の当日、

「寝耳に水だ。どうなっているのか?」と、記者に尋ねたといいます。

球団首脳から、なにも聞かされていなかったようです。

 

ドラフト会議では、阪神が江川投手を指名します。

コミッショナーは苦慮しますが、

強権発動で、江川選手は、一旦阪神と契約し、

すぐに巨人へトレードに出すように提案しました。

阪神としても交渉が長引くことを避け、

当時の巨人のエースであった、

小林繁投手と江川投手を交換することになりました。

 

小林投手は翌年、巨人戦8勝を含む22社を挙げ、

沢村賞も受賞しました。

一方の江川投手の成績は9勝に終わっています。

 

2年目の江川投手は16勝を挙げ、

最多勝最多奪三振のタイトルを獲りますが、沢村賞を逃しました。

翌年は20勝6敗で最多勝最多奪三振最優秀防御率最多勝率、

最多完封と、投手のタイトルを総なめしますが、

沢村賞に選出されたのは、18勝12敗の西本聖投手でした。

 

これらの結果は、

沢村賞を選ぶ担当記者が、江川投手を敬遠した結果でした。

しかし、これが、

ダーティのイメージがつきまとっていた江川投手への、

同情の声に変わります。

「いくらなんでも、この結果はないんじゃないか」、と。

逆に、プロ野球ファンによる

西本投手へのいわれのないバッシングに変わったのは皮肉であり、

西本さんにとっては気の毒なことでした。

 

現在、プロ野球に入団する選手は、一定の年数を経過すれば、

フリーエージェントの資格を得ることができます。

しかし、江川投手の時代には、そのような制度はありません。

高校卒業後、阪急に入団していれば、

300勝以上の成績を得られたと思いますが、

おそらく阪急は、引退するまで、

江川投手を手放さなかったでしょう。

 

空白の一日事件は、

フリーエージェントや、MLB挑戦を可能にするなど、

その後のプロ野球の改革につながったともいえ、

その意味では、江川投手は貢献をしたといえるでしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。 

消えた帰雲城

よしをです。

天正13年(1586年)旧暦11月の深夜、大地震が発生し、

近畿から東海、北陸にかけての広い地域に被害をもたらしました。

それは、のちの1891年10月28日に発生した、

日本最大の直下型地震である、濃尾地震マグニチュード8.0)に匹敵する、

規模だったといわれています。

 

天正地震は、戦国の世を揺るがす大惨事をもたらしました。

近江国長浜では、液状化により、集落が琵琶湖に水没し、

長浜城が全壊して、山内一豊の娘と城家老が死亡しました。

越中国でも、木舟城の倒壊で城主の前田秀継(利家の弟)が死亡し、

美濃国大垣城は焼失し、尾張国清洲城も半壊しました。

飛騨国では、帰雲城とその集落が、山津波と川の氾濫に巻きこまれて、

城主の内ケ島氏理(うちがしま・うじまさ)以下、

内ケ島一族と、領民500名が一瞬のうちに全滅しています。

 

震源は、はっきりしていません。

飛騨の白川断層が有力とされていますが、

北陸のいくつかの断層なども、可能性があるといわれています。

内陸部を震源地としていますが、津波の被害も報告されています。

伊勢湾に面した桑名、長島、弥冨や、三河湾津波が確認され、

沿岸部では地盤沈下もあり、多くが溺死したといわれています。

また、「兼見卿記」やフロイスの「日本史」には、

若狭湾での津波の記述があり、この地震の大きさを物語っています。

 

帰雲城は、世界遺産白川郷のほぼ中央にあり、

戦国時代に白川郷から飛騨国一帯にかけて勢力をふるった、

内ケ島氏の本拠でした。

 

内ケ島氏は、もともと、飛騨の国人(地方豪族)だという説のほか、

「斐太後風土記」には、

信濃国松代にいた、楠木氏の末裔が内島姓を名乗り、

足利義政将軍の命を奉じて白川に来たという記述があるほか、

江戸時代になり、内ケ島氏に所縁のある旗本が、

内ケ島氏は、かつて武蔵国にいた源氏の豪族の末裔であり、

家督争いで飛騨に移り住んだと語っています。

 

飛騨の地は、耕作には不適な土地が多いのですが、

内ケ島氏は、金銀銅の鉱物資源を発見し、大いに栄えました。

また、周囲を山岳で囲まれ、雪深い飛騨地方は、天然の要害であり、

ほかの有力大名の侵略から、逃れることができました。

内ケ島氏理の代になると、

上杉謙信の与力である姉小路頼綱軍の侵攻を受け、撃退しています。

 

天下が統一される過程において、内ケ島氏理は織田家に所属し、

佐々成政に呼応して参戦し、秀吉軍に破れますが、

氏理は、金森長近を通じて和睦を願い出て赦され、

飛騨一国を治めることになった長近に、従属することになりました。

 

天正13年旧暦11月29日(グレゴリオ暦1月18日)、

雪深い帰雲城で、一族や重臣全員を集め、和睦成立の宴が開かれ、

その晩おそく、大地震による山の崩落により、帰雲城は消滅しました。

 

助かったのは、たまたま領外に出ていた数人だけでした。

内ケ島氏理の実弟であった経聞坊は、仏門にあったため難を逃れ、

「経聞坊文書」に、この地震の記録を残しています。

この資料のおかげで、白川郷の惨事をのちに伝えることができましたが、

いまもって、帰雲城の正確な位置は確定されていないそうです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

時事放談と人生幸朗と父の思い出

よしをです。

これまでのブログの記事を掘り起こしてみると、

歴史や国内外の情勢などの話題に偏り、

表題の「卒サラ」とは変化してきているように感じています。

こういう分野に興味があったのかと、われながら驚き半分ですが、

これまで書き続けてきて積み上げた結果と、納得する次第です。

もし、こんなブログに興味がある人がいらっしゃれば、

これからも、ときどき覗いてみてください。

 

父は、日曜の朝に放送していたTBSの「時事放談」を、

欠かさず視聴していました。

朝日新聞出身の細川隆元氏と、評論家の藤原弘達氏の対談番組で、

2人が政局に鋭く切り込む姿が新鮮でした。

 

特定の子ども向け番組を除いて、

基本的に、テレビのチャンネル権は父親にありました。

当時、小学生のわたしは、こんな硬派な番組を、

わけもわからず、強制的に見せられていたわけですが、

子どもながらに、感心して見ていたように記憶しています。

この番組は、ラジオ番組としてスタートし、

当初、細川氏の相方は、日経新聞出身の小汀利得氏だったそうですが、

わたしは、細川・藤原ペアの記憶しかありません。

対談は、細川氏の話を受けて、藤原氏が答えるというイメージがあり、

藤原弘達氏のダミ声や独特な笑い声が、強く記憶に残っています。

 

細川隆元氏は肥後藩の細川家の末裔であり、

政治評論家の細川隆一郎氏は甥、細川護熙元総理の縁戚にあたります。

一方、藤原弘達氏は、創価学会批判の旗手として知られる右派評論家です。

この2人の組み合わせは、保守的な傾向が強く、

現代の、左派傾向が強い情報系番組とは一線を画しています。

「サンモ二」や「ニュース23」のTBSが、

当時、このような硬派な対談番組を放送していたというのは、

ある意味、驚きです。

 

この番組では、議論がヒートアップしたところで、

女性アナウンサーが茶菓子を出すのですが、

今回はどんなお菓子が出るのかが、小学生のわたしの楽しみでした。

 

父は漫才も好きで、とくに人生幸朗のファンでした。

人生幸朗は、生恵幸子との夫婦漫才で、大阪を拠点に活躍しました。

幸朗が歌謡曲や世相に難癖をつけ、

幸子が甲高い声でツッコミをいれる、「ぼやき漫才」のスタイルで、

幸朗が、「まあ、皆さん、聞いてください」と観客に語り掛け、

しゃべりに熱が入ってくると、顔を紅潮させ、身振り手振りを交えて、

口角泡を飛ばす勢いで、がなり立てるのですが、

幸子がそれを制し、「この、泥亀が!」など、鋭い合いの手を入れるのです。

人生幸朗・幸子の漫才は、幸朗の「責任者、出てこい」の決め台詞で締め、

漫才の終わりに、2人は丁寧に観客に挨拶します。

このことによって、かれらの毒舌漫才は決して下品に見えません。

 

幸朗は弱視だったため、

牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を手放せませんでしたが、

同時にそれは、かれのトレードマークになりました。

眼鏡を外したまま、楽屋で芸人仲間と大皿の寿司を出前でとった際、

幸朗は、皿の底に書かれた海老の絵を本物と勘違いして、

必死に箸でつまもうとしていたというエピソードも残っています。

 

幸朗は生涯で三度結婚していて、幸子は三番目の妻でした。

気難しく奔放な性格で、幸子も苦労が絶えませんでした。

しかし、晩年は、無償で各地の刑務所を慰問するなど、

社会貢献にも熱心で、幸朗の没後、幸子も慰問活動を引き継ぎました。

 

時事放談しかり、人生幸朗・幸子の漫才しかり、

かれらの世相の切り口には、

高度成長期を象徴する、明るさや健全性があったように思います。

論壇と演芸は時代を象徴する写し鏡なのでしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

 

さようなら五島勉

よしをです。

1999年7月に人類が滅亡するというショッキングな予言により、

日本で世紀末ブームをおこした「ノストラダムスの大予言」の著者、

五島勉氏が今年の6月、90歳で亡くなりました。

 

ノストラダムスの大予言」が1973年に出版されると、

日本中の多くの人が人類滅亡の恐怖に恐れおののきました。

当時小学生だったわたしも、自分が30代で死んでしまうことに、

密かな恐怖心を抱いていましたが、

当時は、将来を悲観して自殺する若者がいたとか、

「どうせ死んでしまうのだから、自分は結婚しないし、子どももつくらない」

という若い女性も多かったといいます。

その後も、五島氏やほかの作家の著作や雑誌などで、

つぎつぎと世紀末の恐怖が語られましたが、

1999年7月を過ぎても、世界は何も変わることはありませんでした。

 

2019年、五島氏は雑誌やテレビのインタビューに答えています。

「当時の子どもたちには謝りたい。子どもが読むとは思っていなかったんですよ。まじめな子どもたちは悩んでご飯が食べられなくなったり…。それは謝りたいと思う」と、

謝罪したあと、さらに、

「はじめに1999年って出ているでしょ?多くの人はそっちのほうしか読まない。最後に『残された望みとは?』として、未来の展望も語っているんです」と、

半分言い訳のようなコメントを残しています。

 

現代の若者や子どもたちが、ノストラダムスのような預言者に恐怖を感じて

パニックに陥ることは、ほとんど考えられません。

なぜなら、ノストラダムスの予言が受け入れられたのは、

発刊当時の世相を反映していたからです。

1973年といえば米ソ冷戦時代の真っただ中でした。

第一次オイルショックやインフレなどの重苦しい世情のなか、

第三次世界大戦や核戦争の可能性が囁かれていた時代です。

 

あの本によって人生を誤った人がどれぐらいいたのか知りませんが、

影響力が五島氏の想像をはるかに超えていたことに疑いはなく、

のちにオウム真理教にも影響を与えたともいわれています。

これらのことから、最晩年になって、かれの口から、

紹介したような反省や懺悔の言葉が出ることになったのでしょう。

 

予言が外れた言い訳を重ねなければならなかった、

2000年以降のかれの人生については、気の毒にも思います。

五島氏はその後もユダヤ陰謀論などを展開してオカルト論を積み重ね、

引っ込みがつかなくなってしまいました。

 

考えてみれば五島氏とは不器用な人で、

元々かれはフランスや西欧の神学研究者や歴史研究者でもなんでもなく、

「微笑」や「女性自身」といった、女性誌の記者出身なのです。

どこかのタイミングで、エッセイストに転身するとか、

「いや~儲けさせてもらいました。印税で家一軒建てさせてもらいました。ノストラダムス様々ですわ」などと笑い飛ばして、

能州虎(のすとら)神社」でもこしらえていれば、

罪悪感に苛まれて謝罪することもなく、洒落で済んだのでしょうが、

五島氏はそのようなキャラクターではなかったようです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

10世紀に日本海を挟んで起こった2つの大噴火

よしをです。

十和田湖は火山です。

火山というと、富士山や浅間山のような円錐型の山を想起しますが、

火砕流の噴出によって生じた陥没カルデラは、十和田湖のほかに、

北海道の屈斜路湖支笏湖洞爺湖や、九州の阿蘇山があります。

 

平安時代に発生した十和田湖噴火は、日本の有史以来、最大規模でした。

延暦寺の僧侶が記した「扶桑略記」には、

延喜15年(915年)の記録として、

「8月18日の朝日には輝きがなく、京の人びとは、まるで月のようだと、不思議に思った。8月26日になって、京に灰が降って二寸積もった。出羽国から、灰が雨のように降り、桑の葉が各地で枯れたという報告があった」、という記述があります。

 

十和田湖周辺は、もともと人口密集地ではないので、

どれほどの被害が生じたのかは不明ですが、のちの地学調査により、

火砕流は猛スピードで半径20キロに広がり、泥流は鷹巣盆地を泥濘化して、

耕作地や建物を飲み込んだことがわかっています。

 

北朝鮮と中国の国境線上に聳える白頭山は、朝鮮半島唯一の活火山で、

これまで、100年に一度の小規模爆発と、

1000年に一度の大噴火を繰り返しています。

直近の噴火は、1925年に発生した小規模なものでした。

西暦946年の白頭山の大噴火は、世界最大級のものでした。

爆発の勢いはすさまじく、頂上に直径5キロメートルのカルデラが形成され、

半島全体に、5センチの厚さの火山灰が覆いました。

正史である「高麗史」には、

「是歳天鼓鳴赦」、「定宗元年(946年)天鼓鳴」の記述があります。

前者の意味するところは、

神の怒りを鎮めるために、罪人の大赦をおこなったということでしょう。

火山灰は偏西風に乗って、東日本や北海道まで達し、

興福寺年代記」には、

奈良にも白い火山灰が降ったという記述があります。

 

2005年、中国の研究チームは、

白頭山カルデラの地下にある、マグマの熱源を確認しており、

地中から噴出する火山性ガスの影響による、

火口付近の樹木の枯死も確認しています。

 

火山の噴火と核実験との因果関係も指摘されています。

白頭山は、豊渓里の核実験場から、130キロしか離れておらず、

これまで、ほとんど地震が発生しないといわれていた朝鮮半島で、

ここ数年、地震が頻発しているのです。

西暦946年から、すでに1000年以上が経ちましたが…。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。

ピロリ菌シロウト考

よしをです。

ピロリ菌は、胃がん胃潰瘍の原因であることが知られています。

菌の保有率は、世界平均で50%程度であるといわれていますが、

地域差が大きく、インドやラテンアメリカでは70%と高く、

先進諸国では20%前後になっています。

日本は先進国のなかでは保有率が高く、

40%程度であるといわれています。

 

医療機関のデータでは、ピロリ菌保菌者の30%が、

なんらかの胃腸の病気を発症するといわれています。

ほとんどが幼児期に感染するといわれ、

原因は、井戸水や、食べ物の口うつしなどとされていますが、

衛生状態が向上したことから、

日本でも、若い世代に限っていえば5%程度に収まるといいます。

 

最近になって急速に、ピロリ菌が人間社会から駆逐されつつありますが、

人類の歴史とともにしていた細菌が、

わずか数世代のうちに、消え去るという劇的変化が、

人体にどのような影響を与えるのか、

漠然とした不安を感じることがあります。

医学シロウトなので…。

 

悪玉扱いされているピロリ菌ですが、胃がんの発症原因であると同時に、

ほかの病気を抑制する効果があることも知られています。

代表的な病気が、胸やけをおこす逆流性胃腸炎と、食道がんです。

ピロリ菌は、胃酸を減少させる働きがあるため、

制酸剤と同じ効果で、胸やけや食道への胃酸の刺激を押さえ、

がんの発生を抑制する効果があるそうです。

 

そのほかにも、

ピロリ菌をもっていない人のほうが発症しやすい病気としては、

潰瘍性大腸炎や、消化器官に慢性炎症をきたすクローン病

小麦などのグルテンに対する、自己免疫疾患のセリアック病や、

消化器官とは直接関係ありませんが、ぜんそくがあります。

 

これらは、いずれも、20世紀になって増えてきた病気です。

人間の身体を守るために働いていた免疫機能が、

自らを攻撃してしまうという現象は、

体内における、善玉菌と悪玉菌のバランスが崩れてしまったことに、

起因するのではないかと思うのです。

いずれ人間の身体が無菌状態になったら、どうなってしまうのか、

シロウト考えですが、かすかに恐れを感じます。

 

日本人の健康志向は、やもすれば、極端な潔癖症に向かいますが、

「癖」であるからには、必ずしも美徳ではありません。

形の悪いものや虫が穴をあけた野菜、

少しでも賞味期限を過ぎた加工食品はスーパーの店頭に並びません。

ウォシュレットのないトイレで用を足せない人や、

カバーなく、むき出しの状態で販売しているパンや総菜を、

買えないという人もいます。

 

昭和40年代は、現代よりはるかに不衛生でした。

小学生のころ、蟯虫(ぎょうちゅう)検査で寄生虫が見つかると、

ピンク色の、甘い虫下しの錠剤をもらって、喜んでいたものです。

最近の都会の子どもたちを見ると、

顔に傷のある子が少ないと感じます。

チクロ菓子で口の中を真っ赤にしながら、

ドブに落ちて泥だらけになって、野山を駆け回って、

しょっちゅうケガをしていた時代、

子どもたちは幸せだったように思うのです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。