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教育勅語は危険思想か

 

よしをです。

 

安倍改造内閣のあたらしい文部科学大臣 柴山昌彦氏が、

就任会見で、教育勅語について、

「普遍性をもっている部分がある。

現代的にアレンジして教えていく動きがあり、

検討に値する」、

と、肯定的なコメントをしました。

これまでも、下村文科大臣(当時)や、稲田防衛大臣(当時)なども、

教育勅語を肯定する発言をしています。

 

これについて、マスコミや野党は、言語道断などと、一斉に反発しています。

かれらは一様に、教育勅語は、戦前礼賛のひとつの現れとして、

危惧を抱いてしているように思います。

「同胞や家族、友だちを大切にする、という当たり前のことをいうのに、

なぜ、教育勅語を持ち出す必要があるのか」

といった論調が、強いようです。

 

まずは、教育勅語がどういうものなのか、実際に見てみましょう。

ひょっとすると、教育勅語に批判的な人のなかには、

内容も知らずに、反対している人も多いように思うのです。

 

教育勅語は、

明治天皇の命により、井上毅が中心となって草案に当たりました。

内容は、明治天皇自身が国民に語りかける形式となっていて、

国務に関する詔勅ではなく、勅語として、明治23年に発布されました。

終戦後、GHQによって教育勅語は禁止され、

それに代わるものとして、教育基本法が制定されました。

 

その内容ですが、原文だと固いので、現代語にて意訳してみました。

 

「わたし(明治天皇)が思うに、

わが皇室の先祖が国を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、

代々築かれてきた徳は、深く、厚いものだ。

わが国民が、忠義と孝行を尽くし、全国民が心をひとつにして、

世々にわたって立派な行いをしてきたことは、

わが国の優れたところであり、教育の根源もまた、そこにある。

あなたたち国民は、父母に孝行し、兄弟仲よくし、夫婦は仲睦まじく、

友達とは互いに信じあい、行動は慎み深く、他人に博愛の手を差し伸べ、

学問を修め、仕事を習い、それによって知能をさらに開き起こし、

徳と才能を磨き上げ、すすんで公共の利益や世間の務めに尽力し、

いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい。

そして、もし危急の事態が生じたら、

正義心から勇気をもって公のために奉仕し、

それによって永遠に続く、皇室の運命を助けるようにしなさい。

これらのことは、単にあなたたちが、

忠義心厚く、善良な国民であるとうことだけでなく、

あなたたちの祖先が残した、よい風習をほめたたえることでもある。

このような道は、実にわが皇室の祖先が残された教訓であり、

その子孫と国民が共に守っていかねばならないことで、

昔も今も変わらず、国の内外をも問わず、間違いのない道理である。

わたしは国民と共に、この教えを胸中に銘記して守り、

皆が一致して、立派な行いをしていくことを切に願う」

(以上、よしをの現代訳です)

 

イデオロギー的な見地ではなく、純粋に内容を汲んでみると、

柴山大臣のコメントにある、「普遍性をもっている部分」は、

随所に見つけることができます。

 

一方で、教育勅語にアレルギーをもつ側にも、

気になるワードがいくつかあります。

 

・忠義(帝国主義を想起させる)

・危急の事態、公のために奉仕(戦争を想起させる)

憲法を重んじ(帝国憲法の順守)

 

教育勅語の存在そのものが認められないという人にとっては、

生理的ともいえる、アレルギーの爆発的な反応があり、

それは、公平な意見を抹殺する圧力にもなります。

重ねて引用しますが、

野党政治家の「言語道断」などのコメントは、そのひとつです。

 

皮肉な話ですが、

全体主義を嫌うはずのリベラリストの活動が、

議論そのものの圧殺という、

ある意味、逆の全体主義に走ってしまう結果を生むのです。

 

以前、東日本大震災原発事故に関して、

日本人の潔癖さ(汚染水を海に流すことは絶対にダメ)や、

そもそもの原子力に対するアレルギーが、

福島原発廃炉の足かせになっている

可能性があることを指摘しました。

教育勅語への反応についても、既視感を覚えます。

わたしは、

病的な潔癖さに起因する、ヒステリックな傾向があることは、

日本人の大きな欠点だと考えています。

 

現代日本においては、ほぼ100%の国民が、

戦争を望んでいませんし、帝国主義を礼賛することはありません。

それをあえて逆手に取り、

議論を封殺するのが、フェアな行為だとは思いません。

教育勅語についても、

少なくとも、言語道断などと切り捨てるのではなく、

議論をする余地を認めるべきではないでしょうか。

 

日本には、もっと公平な議論ができる環境が必要です。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。