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崇徳院

よしをです。 

 

日本では、古来より、怨霊信仰があります。

政争などで敗れた貴人が、強い怨霊と化すといわれていて、

菅原道真平将門、祟徳院が三大怨霊といわれていますが、

なかでも、祟徳院は、日本で最強の怨霊だといわれています。

 

祟徳天皇の祖父は、院政をはじめたことで知られる白河天皇です。

その影響力は強大で、子や孫世代まで、権力を及ぼしました。

祟徳は、この白河天皇の子とする説もあり、

父親の鳥羽上皇から疎まれていました。

祟徳は即位してしばらくで、兄弟の近衛に譲位を迫られ、

近衛天皇の死後は、自分の息子を即位させようとしますが、

祟徳が近衛天皇を呪い殺したという噂がたち、

激怒した鳥羽上皇によって、祟徳の子ではなく、弟の後白河が即位しました。

 

父親の鳥羽が崩御した際も、臨終に立ち会うことを禁じられ、

今度は謀反の噂が流されました。

祟徳は、朝廷の混乱によっておこった保元の乱の、一方の首魁として担がれ、

後白河に敗れて、讃岐へ配流されました。

 

配流先から、戦死者の供養と反省の証として写経をし、都に送りますが、

今度は、後白河天皇に、呪いが込められているのではないかと疑われ、

奉納も拒否され、写経は送り返されました。

心をこめて書いた写経が送り返されたことに激怒した祟徳は、

舌をかみ切り、その血でもって呪いの言葉をしたため、

亡くなったと伝えられています。

 

祟徳が亡くなったあと、朝廷は弔うこともなく、死しても罪人扱いのままでした。

その後、後白河や、近親者が次々に亡くなり、

延暦寺の僧兵の強訴や、安元の大火で、都の三分の一が焼失するなど、

立て続きに災難がおこり、祟徳院の祟りだということになりました。

怨霊となった院の祟りをおそれ、

朝廷は、あらためて手厚く法要したということです。

 

こんなおどろおどろしい来歴の祟徳院ですが、

落語の世界に登場すると、ほほえましい噺に生まれ変わります。

祟徳院は、歌人としても高名ですが、小倉百人一首の有名な一首に、

「瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われても末に あわむとぞ思ふ」

があります。

岩に当たって二手に分かれる川の流れが、やがてひとつに合流するように、

今、分かれ分かれになっているあなたとも、また逢いたいと思います、

という意味の恋歌です。

 

落語・祟徳院では、この和歌を題材に、

商家の若旦那と大店の娘の恋模様を描き、

ほのぼのとした作品に仕上がっています。

 

このような形で再評価されたことで、

日本一の怨霊である祟徳院が、恋愛の神様として、

蘇ったといえるのではないでしょうか。

 

日本文化の奥深さを、感じます。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。