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歴史のウソ? 天草四郎

よしをです。

 

島原の乱は、

1637年から1638年に、現在の長崎県の天草地方を中心に、

隠れキリシタンが、数万人規模で蜂起した、国内史上最大の叛乱です。

蜂起の動機になったのは、

キリスト教弾圧への抵抗だといわれていますが、

突発的な叛乱ではなく、前もって周到に計画されたものでした。

 

実態は、当時、キリシタン大名の改易にともない、

大量に発生していた、脱藩牢人(いわゆるキリシタン牢人)が、

農民を扇動した一揆だったと考えられています。

 

一揆軍は、

当初は、島原藩をはじめ、九州諸藩の軍勢や、幕府軍を破りましたが、

最終的には松平信綱らの軍勢によって、廃城(原城)に追い詰められ、

首魁の天草四郎も討たれたとされています。

 

幕府側は、

総勢13万人を動員、死者は1000~2800名、

一揆側は、

最終的に籠城したのは、3万7千人(うち、非戦闘部員1万3千人)です。

叛乱軍に対する処罰は苛烈で、

3万7千人のうち、戦闘で死亡した以外の者も、ほぼ全員が処刑されました。

 

天草四郎の正体は、謎めいています。

周囲の首謀者である、脱藩牢人の出自などは、

資料が残されており、ほとんど判明していますが、

四郎の出自は、よくわかっていないのです。

 

豊臣秀頼落胤とか、キリシタン大名小西行長の子どもだったという、

眉唾モノの伝説もありますが、信憑性はまったくありません。

小西の遺臣・益田好次の子どもとする説が有力だといいますが、

こちらにも、根拠はないようです。

 

史家・吉村豊蔵氏の著書 「天草四郎の正体」によれば、

天草四郎は、実在の人物ではなかったという説が唱えられています。

 

脱藩牢人たちは、乱の数年前から、活動をはじめています。

16~17歳の若衆を使って、隠れキリシタンの村を巡回させ、

「四郎殿と申して、十七、八歳の人が、天より降りてこられた」

「やがて、信者をお迎えにこられる」

といった、救世主の教えを説いて回らせています。

 

やがて、一揆がおこります。

叛乱の実態は、脱藩牢人の主導でしたが、天草四郎は、首魁として担がれます。

叛乱軍の攻勢とともに、四郎の活躍は、断片的に一揆衆に伝わっていきます。

その一方で、四郎が海の上を歩いたとか、

手かざしで、盲目の少女の視力を取り戻したとか、

さまざまな奇跡が伝えられ、神秘性とカリスマ性が、ますます高まっていきます。

 

一揆勢が立てこもる原城が取り囲まれ、絶望的な状況になっても、

連日、四郎の督励は、一揆勢に伝えられました。

「益田ふらんしすこ」の名前による檄文が、現在も残されています。

しかし、神格化が完成したためか、四郎は人前に出ることはなく、

城内中央の教会にいるはずの四郎の姿は、まったく目撃されていません。

一方で、周囲を固める若衆は、度々目撃されています。

かれらは、いずれも立派ないで立ちで、同じような服装をしていました。

 

乱鎮圧ののち、幕府軍の各大名から、四郎の首が差し出されました。

その数、10以上。

吟味の結果、熊本藩から提出された首が、四郎のものとされました。

 

叛乱の鎮圧後、幕府は、四郎に関する情報を集めましたが、

やはり、伝聞情報しかなく、実像はわからないままでした。

 

「それらしい人物はいたかもしれないが、限りなく創作にちかい人物」

というのが、吉村氏の見解です。

 

「若衆」とは何者だったのか。

おそらく、一揆勢から選抜されたオルグ集団であり、

天草四郎の周囲を固める若衆というポジション、

その実体は、存在しない天草四郎を、存在しているように演出していた、

つまり、かれらのすべてが、天草四郎だったと想像できるのです。

 

いわば、天草四郎とは、少年ユニットの名前だったという話です。

美輪明宏さんの前世ではなかったかもしれませんW。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。