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六代目三遊亭圓生の不覚

よしをです。

 

1978年に、六代目三遊亭圓生が、落語協会を脱退し、

一門や、若手実力派落語家を、ごっそり引き抜いて、

あらたな団体をつくろうと画策しました。

 

協会脱退の原因は、真打昇進をめぐるトラブルでした。

当時、落語協会会長は、五代目柳家小さんです。

小さんの方針は、前座、二つ目と、15年修行すれば、

無条件で真打にしてやろうというもので、

上手いヤツだけを真打にすべきという圓生の考え方と、

真っ向からぶつかったのでした。

 

圓生は、一門以外にも、立川談志古今亭志ん朝月の家円鏡など、

当時の人気落語家を引き連れて、

あらたな協会の旗揚げを構想していました。

寄席興行の一角に食い込み、

既存の協会(落語協会落語芸術協会)とともに、3つの協会が鼎立し、

1月で10日づつ興行をおこなえばいい、と目論んでいましたが、

裏切りや懐柔などの、切り崩し工作にあい、

結局、圓生一門の噺家も含め、ほとんどが、落語協会に戻ってしまいました。

 

寄席での活動を封じられた「落語三遊協会」は、

全国各地での、ホールなどでの活動を余儀なくされ、

失意のうちに、圓生は亡くなってしまいました。

 

一門のその後は、

圓生の一番弟子の、三遊亭円楽(先代)が、圓生の遺志を継ぎ、

「円楽一門」を発足して、現在に至ります。

円楽やその弟子(好楽、楽太郎)が、

人気テレビ番組・笑点に出演していたため、

一門が協会を離脱しても、なんとかやっていけました。

落語家の活動の場が、寄席から、ラジオ、テレビへ移行しつつあったことも、

かれらの活動の後押しになりました。

 

しかし、そのような長年の苦労がありながらも、

円楽一門には、気骨にあふれるという印象が希薄です。

大看板の圓生を失ったことに起因しているのか、

一門全体に、なにか、弛緩した雰囲気が漂っているのです。

 

円楽(先代)は、テレビの画面では豪快にみえますが、

リーダーシップが欠落していたと考えています。

それは、円楽自身が、

あまり上手い噺家でなかったことにも、起因しているかもしれません。

 

円楽は、古今亭志ん朝と折り合いが悪く、

自分よりも年下で、入門が遅いのに真打への出世が早かった志ん朝を妬んで、

普段から、「強次(きょうじ・本名)」と、呼び捨てにして、虐めていたといいます。

そのため、あまり他人を悪く言わない、志ん朝が、周囲に向かって、

「あの人(円楽)は、下手だから嫌いだ」と、悪口を言っていたといいます。

 

円楽自身の人間性とともに、円楽一門の運営方針にも疑問があります。

円楽一門は、出世がすごく早いのです。

先の協会分裂の原因となった、小さん会長の真打昇進の方針は、

入門して15年で真打になるというものでした。

ところが、円楽一門では、さらに出世が早く、

早ければ8年で、だいたい10年で、真打に昇進しています。

 

この異様なスピード昇進に対しては、

六代目圓生の遺志を継ぐ団体としてどうなのか、という疑問が沸きます。

やはり、落語協会を脱退した立川談志一派(立川流)の場合は、

真打昇進の規定は、圓生よりもさらに厳しく、

談志没後も、一門全体に緊張感が漂っています。

力のある噺家を、多く輩出している立川流と比較して、

円楽一門には、そのような緊張感がなく、実力のある噺家が育っていません。

 

結局、圓生は、弟子に恵まれていませんでした。

上手い弟子も、人徳のある弟子もいなかったのです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。