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卑怯なり! 楠木正成

よしをです。

 

 わたしは、東西を問わず、歴史が好きで、

とくに、日本の中世から戦国時代までの歴史に、興味があります。

今回は楠木正成について、少し書いてみようと思います。

 

1331年から1333年に起こった、赤坂・千早城の戦いは、

後醍醐天皇の討幕運動に呼応した、

楠木正成、正季親子らの一派と、鎌倉幕府軍の戦いです。

 

もともと、正成一党は、悪党とよばれる河内在住の土豪です。

かの地の豪族は、もともと勤王の志向が強いのですが、

正成としては、そんなピュアな発想だけではなく、

この乱世に乗じて、一党の利益を拡大するために、

立ち上がったのだと想像します。

 

正成は、挙兵と同時に、現在の大阪府千早赤阪村に、築城しました。

この城は、上赤坂城と下赤坂城の2城で構成されています。

正成は、上下赤坂城に立てこもったものの、城は陥落し、

しばらく姿を消していましたが、翌年、両城を奪い返しました。

さらに、正成は赤坂城の後詰として、背後の山に、千早城を築き、

上赤坂城、下赤坂城、千早城の3城で、幕府軍と対峙します。

 

太平記によれば、正成側は、守兵わずかに1000人で籠城し、

20万人ともいわれる(人数諸説あり)、鎌倉幕府軍と対戦しました。

しかし、多勢に無勢で、両赤坂城が陥落し、千早城に逃げました。

勢いにのった幕府軍は、一気に攻略すべく、千早城に殺到しますが、

ここで、勢いが頓挫します。

千早城からは、岩を投げ落としたり、火をつけるなどのゲリラ戦に、

幕府軍は悩まされたといいます。

包囲軍は、水や食料を断つ戦略を採用しますが、

正成側は、夜間にゲリラ戦をしかけて、包囲網を破って抵抗します。

激怒した幕府側の司令官は、無理攻めを繰り返し、

崖の上から落ちてくる大木に押しつぶされる兵が続出する始末です。

 

その後も籠城戦は続きますが、

有名な、藁人形作戦や長梯子の計、火計などのゲリラ戦で、

守り側は徹底抗戦し、

やがて、京にある、幕府の拠点である六波羅探題が陥落したという

報告を受けて、幕府軍は撤退しました。

 

これが、守兵1000人で、20万人の幕府軍に打ち勝ったという、

楠木正成の伝説の一つになるのですが、

幕府の大軍が負けてしまった本当の原因は、何だったのでしょうか。

 

まず、根本的に、城攻めは難しいということです。

戦国時代の例ですが、徳川家康は城攻めが苦手でした。

石田光成のケースでは、「のぼうの城」という小説で有名になりましたが、

平凡な平城でも、陥落させることは容易ではありませんでした。

織田信長も、長島の一向一揆には、苦しめられています。

時代が下がって、江戸時代に起こった、島原の乱も籠城戦の典型でしょう。

唯一、豊臣秀吉は、城攻めが得意でしたが、

その戦法は、兵糧攻めによるものですから、

厳密にいえば、戦って勝利したということではありません。

ちなみに、兵糧攻めに対しては、正成は、土地勘を生かして、

山中の抜け道を使って、包囲網から巧みに逃れ、無効化していました。

 

ふたつめの理由は、正成の戦い方が、「汚かった」からです。

この時代の武士は、鎌倉武士の流れをくんでいますから、

「やあやあ、われこそは」など、名乗りを上げて戦うことが通例でした。

しかし、正成一党は山賊ですから、そのような戦いのマナーは関係なく、

平気で、崖の上から、岩や大木を落としてきます。

 

太平記では、崖の上から投げられたのは、

岩とか大木や松明のほかに、熱せられた油だとしています。

この時代の油といえば、石油ではなく、植物性の油ですが、

いくら熱しても、火などつきませんし、空気に触れて、すぐに冷めてしまいます。

実際に、油の代わりに頭上から降ってきたのは糞尿でした。

そして、ご丁寧に、弓矢の先にも、糞尿がたっぷり塗りつけてありました。

こんなことをされて、プライドの高い鎌倉武士が我慢できるはずがなく、

「なんで、こんな汚らしい連中と戦わなければ…」と、

戦いのモチベーションは、さがってしまったことでしょう。

 

日本の歴史というのは、美しく誇張されています。

太平記でも、正成軍が、崖の上から糞尿をぶっかけて、

幕府軍をひるませたとは、書きづらかったと思います。

 

楠木正成は、後醍醐天皇に、総大将に抜擢されることもなく、

京を焦土化するというゲリラ戦術も、採用されることはありませんでした。

最終的に、味方に見捨てられるように、無念の戦死を遂げるのですが、

後醍醐帝とすれば、平気で糞尿戦術をするような汚い山賊を、

重用する気にはならなかったのでしょう。

そういう悲劇の一面が、楠木正成にあることは間違いありません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。