さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

織田信長の狂気と感受性

よしをです。

 

織田信長の家臣となった、黒人の侍・弥助の物語が、

ハリウッドで、映画化されることになったそうです。

 

信長公記」や「家忠日記」、イエズス会宣教師の記録「日本教会史」など、

複数の資料に、弥助に関する記述がありますから、

架空の人物でないことは確かなようです。

弥助は、アフリカのモザンビークに生まれ、

イエズス会宣教師の奴隷として、来日しました。

好奇心の旺盛な信長が、イエズス会の宣教師から、弥助を譲り受け、

ボディーガードとして登用したのでしょう。

 

信長公記によれば、弥助は、「馬のように黒き身体」とされ、

家忠日記では、弥助の身長を、1.8メートルとしているので、

当時の日本人の体形と比べても、相当な巨体だといえます。

信長は、最初に弥助を見て、体を墨で塗って黒くしていると勘繰り、

体を洗わせたが、色が落ちなかった、というエピソードも残っています。

 

各地で、力自慢による相撲大会を開催した信長は、

近代相撲の祖といわれています。

これは単なる遊びではありませんでした。

各地から、体格のすぐれた力士を選抜し、

ボディーガードとして採用する目的で、相撲大会がおこなわれたのです。

信長の外出時には、周囲は屈強な力士や弥助で、ガードされていました。

桶狭間のイメージが強い信長ですが、実は慎重な面もあったようです。

 

信長の、新規なものへの好奇心は、

宣教師が持ち込んだ、地球儀や羅針盤、ガラス器、鋼鉄製の甲冑などの、

珍奇な器物に向けられ、芸術的な感性を満足させると同時に、

鉄砲や大砲、鋼鉄船など、新兵器の導入にも熱心に向けられました。

 

信長は、決して戦上手ではありませんでしたが、これらの新兵器の導入や、

経済力によって、力に勝る相手を圧倒し得たことについては、

ほかの武将にはまねできない、最大の特長だといえます。

 

信長の好奇心の目は、当然、人間にも向けられます。

信長の周囲には、昔話や政談をする話芸の者(御伽衆)のほかに、

弥助や力士のようなボディーガードや、

小人など、異形の者を置き、偏愛していましたが、

これも、単なる変態行為ではありません。

 

信長は、人間観察に優れた人物であり、その才能は人材発掘に現れました。

豊臣秀吉や、明智光秀といった、のちにブレーンとなる、外様の有力武将は、

いずれも、出自不明で得体のしれない人物です。

 

明智光秀は、美濃の土岐氏に仕えた旧重臣だとされていますが、

実際のところは、出自不明の人物です。

要するに、方々で遊行していた、油断のならない浪人なのですが、

どこで学んだものか、礼儀作法に通じ、幕府要人との人脈があったことや、

なにより、打てば響くように優秀だったことが、登用された理由です。

 

一方、秀吉については、言わずもがの、出自不明の怪人物です。

最初は、異形の者として、お伽衆として傍に置かれました。

異形というのは、秀吉の右手は、指が6本あったからです(親指が2本ありました)。

時代が下がって、江戸時代には、秀吉と同じように、

片手の指が6本ある、「六つ指太夫」という太夫が、吉原で人気を博したそうで、

いわゆる、多指症といって、ときどき現れる症状です。

(現在は、手術で切除するそうです)。

信長は、秀吉を面白がって傍に置くうちに、機転が利くことを発見し、

取り立てていったということなのでしょう。

 

さて、本能寺の変の際、弥助は信長の周辺警護にあたっていましたが、

二条御所に滞在する、織田信忠のもとに、異変を知らせに駆けつけ、

そのまま戦闘の末、捕縛されました。

イエズス会の記録によれば、

光秀は、「黒奴は動物ゆえ、殺さず」といって、弥助を解放したといいますが、

その後の弥助の消息は、記録がなく、わかっていません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。