さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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禁演落語と自主規制

よしをです。

 

昭和16年、時局にふさわしくないということで、

廓噺や、間男の噺などを中心に、53演目が禁演噺とされ、

浅草寿町の本法寺に建立された、「はなし塚」に封印されました。

 

このとき、

五人回し、品川心中、三枚起請、子別れ、居残り佐平治、宮戸川

明烏、包丁など、名作といわれる噺も、上演禁止にされてしまいました。

禁演落語は、いわゆる艶笑噺だけにとどまらず、

戦意高揚の妨げになるとして、一部の滑稽噺も封印されています。

 

はなし塚の発起人は、寄席の席亭でしたが、

当時の噺家の名前も、碑に連ねられています。

八代目桂文楽は、

その十八番(明烏、よかちょろ、つるつるなど)が封じられ、

よほど不本意だったか、八代目とするところ、六代目と揮毫しています。

もちネタの少なかった文楽は、この禁演には、かなり困ったようですが、

あたらしいネタに挑戦したという話もなかったというのは、

強情な文楽らしいエピソードだと感じました。

 

志ん生圓生は、満州に慰問の旅に出ました。

志ん生は、「向こうに行ったら、好きなだけ酒が飲める」、

圓生は、「このまま日本にいても寄席はなくなるし、落語ができなくなる」と、

動機はバラバラながら、半ば気軽な旅行のつもりで旅立ちました。

ところがどっこい、2か月程度で戻るはずが、

中共と国民党の内ゲバや、ソ連軍の侵攻で、満州は大混乱に陥り、

2人は、2年以上も当地に留め置かれ、辛酸をなめることになりました。

 

2人は、陸軍の謀略に与し、当時、満州映画協会の理事長でもあった、

甘粕正彦の前で、禁演噺を演じたとか、

その落語会では、NHKラジオのアナウンサーで、

当時、満州駐在だった森繁久彌が、司会をしたとかいわれていますが、

本当の話かどうかは知りません。

井上ひさしあたりの創作のような気がします。

 

戦後まもなくになると、

GHQの指導により、歌舞伎や落語の演目に規制がかけられました。

たとえば、歌舞伎では、「勧進帳」や「忠臣蔵」などが上演禁止になり、

落語では、女性を虐待するもの、仇討もの、宗教を強要するものが、

検閲の対象になりました。

桃太郎、将棋の殿様、巌流島、寝床、宗論、花見の仇討、

ちきり伊勢屋など、合計27席が対象で、

これらはふたたび、はなし塚に葬られることになってしまいました。

 

GHQが指導した禁令は、

たとえば、「桃太郎」は、父親が息子に昔話を話し聞かせるだけの話で、

仇討とは無関係なのですが、鬼退治の描写がまずいとして封印され、

「将棋の殿様」や「寝床」は、民主主義に反するといった具合の、

きわめていい加減なモノでした。

 

現在、禁じられている演目はありませんが、上演自粛の噺は増えています。

障碍者を扱った演目、たとえば盲目の人を扱った噺などは、

ほとんど、テレビで上演されることはありません。

以前、ある噺家がNHKでかけた「明暗」は、

放送禁止用語をすべて排除したものだったので、

盲人の苦悩や臨場感が、まったく伝わってきませんでした。

 

江戸時代から長い年月が過ぎ、

現代の倫理観や文化が変化しているのは、当たり前ですが、

その一方で、真綿で首を絞めるような、自己規制の風潮が蔓延し、

庶民文化をそのままの姿では残せない、

生きづらい世の中になってしまったことも確かです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。