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小川未明の童話

よしをです。

 

子どもに絵本を与えようと、書店でいろいろ物色するうち、

小川未明という童話作家を、はじめて知りました。

 

小川未明は、1882年に、新潟県の高田町(現在の上越市)に生まれました。

かつては修験者でもあった父親は、上杉謙信の熱狂的な崇拝者で、

春日山神社の創建に奔走した人物です。

未明は、長じて上京し、東京専門学校(のちの早稲田大学)で、

坪内逍遥や、ラフカディオ・ハーンの指導をうけ、

在学中から、執筆活動をスタートします。

その後は、小説家として活動しますが、のちに童話作家に専念します。

1961年に、79歳で没するまで、1000作品以上の創作童話を残し、

日本の童話作家の父、日本のアンデルセンと呼称されている人物です。

 

わたしの目に留まったのは、かれの童話の作風です。

未明の作品には、

童話に似つかわしくない、グロテスクなものが多くあるのです。

 

作品を2つ紹介します。

はじめは、かれの最高傑作といわれる、「赤い蝋燭と人魚(1921年)」です。

 

北の海に棲む人魚が、子どもを産み落とします。

蝋燭屋の夫婦に拾われた人魚の子どもは、美しい娘に成長し、

娘が絵を描いた蝋燭を、神社に灯して漁に出ると、

無事で港に帰れるという噂が広まり、蝋燭屋は繁盛しました。

噂を聞きつけた香具師(行商人)が、蝋燭屋を訪れ、

「人魚は不吉なものだ」などと、夫婦を巧みに焚き付け、

大金を前にした夫婦は、ついに、娘を香具師に売り渡してしまいました。

悲痛な娘は、蝋燭屋を去る前に、白い蝋燭を真っ赤に塗り、

やがて、大きな鉄格子のはまった箱に乗せられて、

香具師に連れられてしまいました。

しばらくのちに、赤い蝋燭を求めた女に、それを売ると、

やがて海は大荒れになり、海岸の町は滅びてしまいました。

 

次に紹介するのは、「金の輪(1919年)」という作品です。

 

病気がちな少年・太郎が、道にたたずんでいると、

ふたつの美しい金の輪を回しながら、少年が現れました。

その晩、太郎は、少年から、金の輪をひとつ、わけてもらう夢を見ました。

その翌日、太郎は熱を出し、数日後に、亡くなってしまいました。

 

「金の輪」の少年は、死神だったのでしょうか。

ふたつの金の輪は、輪廻をあらわしているのではないかなど、

大人であれば、さまざま想像するところですが、

子どものインスピレーションを想起させるための童話としては、

ただただ、ショッキングなストーリーなのではないでしょうか。

 

小川未明の人物像ですが、

非常に短気な性格で、料理店でも、さっさと注文し、即座に酒を飲み、

食事を終えるといった具合でした。

将棋を指すことが多かったが、指し手は早く、すぐに勝負がついたとか、

壺の蒐集と、盆栽を趣味としていましたが、

気に入ったものは、すぐに求め、飽きると人にあげてしまった、

などというエピソードが残されています。

また、人付き合いの幅が極端に狭く、偏狭な性格だったといわれています。

 

未明の童話が、ほとんどが短編だったことも、

かれの短気な性格に、起因するのではないかともいわれています。

 

未明の作品は、その特異な作風ゆえ、

つねに、賛否両論、毀誉褒貶にさらされてきました。

一時期は、書店から未明童話が姿を消していましたが、

ふたたび評価されて、現在、わたしたちの目に触れることになりました。

 

かれは、自分の創作活動に関して、

「わたしは子どもの時分を顧みて、その時分に感じたことが一番正しかったように思うのです」、

と語っています。

 

わたしは、かれにはどこか、幼稚な暴力的志向があるように感じます。

おそらく、父親のスピリチュアルな影響を多く受けたのでしょう。

その作品は、子どもが読んで楽しむというよりは、

大人が、そのような前提を理解したうえで、読むべき作品群だと考えます。

そうなると、童話として楽しむことにはならないですが…。

 

長野県上越市には、小川未明文学館があります。

機会があれば、一度訪問したいと思います。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。