さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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寛容は文明を進化させる

よしをです。

 

佐賀県にある陶山(すえやま)神社は、

有田焼の陶祖の神として知られ、応神天皇と李三平が祀られています。

境内には、磁器製の鳥居や燈篭、狛犬などが並び、

絵馬やお守りも有田焼の焼き物という、非常にユニークな神社です。

 

茶の湯千利休によって芸術化がすすみ、その道具も、独自に進化しました。

茶碗は舶来ものが好まれ、なかでも、利休がすすめる侘茶の精神性に合致した、

朝鮮由来の井戸茶碗を代表とする、高麗茶碗が尊ばれていました。

その作陶技術を導入するために、

豊臣秀吉朝鮮出兵の際に、従軍した大名が、多くの陶工たちを日本に連行しました。

それまで、陶器しかなかった国内の焼き物に、磁器が誕生するきっかけになったのです。

 

日本ではじめて磁器を焼いたのは、

鍋島勝茂の家臣に捕らえられ、日本に連れられてきた、李三平(参平)です。

かれは、佐賀県の有田地方の山で良質のカオリン土を発見し、国内初の白磁をつくりました。

そのほかの九州各藩も、朝鮮人陶工を使って、競って磁器製作に取り組みはじめます。

朝鮮人陶工は、佐賀藩で有田焼を完成させ、薩摩藩で華麗な薩摩焼をつくり、

やがて、薩摩藩から琉球にわたり、のちに壺屋焼を完成させます。

 

朝鮮の陶磁器の歴史は、高麗時代(14世紀)を頂点にして、

李朝になると、時代が下がるとともに、作陶技術は劣化していく一方になりました。

日本の安土桃山時代は、李朝中期にあたり、その時代の作風は、

精巧な白磁から、井戸茶碗など、やや崩れたものに代わる時期と重なります。

その「適度な崩れ」が、利休のすすめる侘の文化に合致し、

爆発的な朝鮮陶磁ブームが生まれたのです。

 

ちなみに、秀吉は、長らく利休のパトロンであったとされていますが、

その好みは、実は全く異なります。

秀吉は、唐物(華麗な舶来品)が好きで、最後まで、利休の侘茶に理解を示しませんでした。

もし、秀吉が朝鮮から明まで攻め込んでいたら、景徳鎮の陶工を大量に国内に連行して、

日本の陶磁器や茶道の歴史を、大きく変えたかもしれません。

 

これほど日本の作陶産業に影響を及ぼした、朝鮮陶磁ですが、

朝鮮本国の陶磁器産業は、大きく発展することはありませんでした。

 

作陶というのは、土にまみれ、磁器を焼く高温にさらされる重労働です。

朝鮮は、朱子学の影響により、もともと労働や商売を忌む社会ですが、

なかでも陶工は、最下層の賤民とされてきたのです。

日本に連行されず、朝鮮に残った陶工はたくさんいましたが、

先に述べたように、作陶技術は、その後は劣化していくばかりでした。

 

一方で、日本に連行された陶工たちは、

江戸時代になって、本国から帰国命令が出ても、誰も帰りませんでした。

かれらは、各藩で、下級武士の地位を与えられ、重宝されていましたから、

帰国して、わざわざ奴隷状態に戻る選択はありません。

陶磁器製作は産業となり、生活雑器としてだけでなく、芸術として昇華しました。

のちに、明治時代になり、日本の輸出産業の主力になったことは、周知の事実です。

 

李三平は、陶山神社で神様になりました。

この国が、このような寛容な社会であることを誇りに思います。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。