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疱瘡と源為朝伝説

よしをです。

 

続日本紀によれば、

疱瘡(ほうそう)は、735年に、新羅から伝わったとされています。

 

疱瘡とは、つまりは天然痘のことです。

九州の太宰府は、海外との接触により、

大陸由来の感染症の流行源になることが多いのですが、

疱瘡も、太宰府を発生源として、全国に流行が拡大しました。

その後、疱瘡のほかに、梅毒やコレラといった感染症も、

太宰府経由で、国内に入ってきました。

 

疱瘡は、古くは、怨霊による祟りだと考えられていました。

疱瘡は新羅から来たことから、

三韓征伐の神である住吉大明神を祀ったり、

疱瘡神を祀る風習が生まれました。

疱瘡神という不思議な神様を祀ることについては、

怨霊や病気を、神として扱うことで、

怒りを鎮める効果を狙ったものでしょう。

 

疱瘡神は、赤色や犬を苦手にするという伝承があり、

家には、疱瘡除けのために、

赤色の御幣や張り子の犬人形を飾ったり、

子どもには、赤色の鯛に車をつけた鯛車という玩具や、

赤色の下着を与えて、疱瘡除けのまじないをしました。

 

赤べこ」という、福島の郷土玩具も、

疱瘡除けのお守りだといわれています。

そのほかには、桃太郎や鍾馗、宝船、源為朝が描かれた護符にも、

疱瘡除けの効能があるとされていました。

 

日本における、疱瘡退治の英雄といえば、源為朝です。

為朝は、源頼朝義経の叔父にあたり、

2メートルを超える巨体の持ち主で、

容貌魁偉、豪遊無双の弓の達人でした。

傍若無人の性格が災いし、父の為義に九州に追放されますが、

手下を集めて暴れまわり、鎮西八郎を名乗ります。

後白河天皇方と崇徳上皇方による、

国を2分する政変(保元の乱)では、

父・為義、平忠正らとともに、崇徳上皇に与して奮戦しますが、

源義朝平清盛を擁する後白河側に破れ、

為朝は、伊豆大島に流刑にされます。

しかし、ここでも国司に逆らって大暴れし、

ついには、伊豆諸島を支配したため、追討され自害しました。

 

為朝は数々の伝説を残しています。

佐賀県黒髪山に棲む、角が7本ある大蛇を退治した際には、

退治の証拠として、ウロコを3枚剥がして牛に運ばせたところ、

あまりの重さに、牛が疲れて死んでしまったとか、

伊豆大島に流刑になっていた為朝が矢を射たところ、

鎌倉の材木座海岸に到達し、

そこから水が沸き、井戸になったとか、

伊豆大島から琉球へ逃れる途中、喜界島の沖合を漂っているときに、

喜界島に向かって矢を放ち、

ここでもやはり、泉が沸いたという伝承があります。

源義経は奥州から大陸に渡り

ジンギスカンになったという伝承がありますが、

為朝の場合は、伊豆大島から琉球に逃れ、

その子が、初代琉球王・舜天になったといわれています。

 

疱瘡と源為朝との関連は、

かれが、おもに九州で活躍したことにあります。

そして、伊豆大島では疱瘡が流行したことがないということが、

為朝の破邪の威力の由来になっています。

 

日本には、比較的早く到達した天然痘ですが、

16世紀に、スペインが新大陸に持ち込んだ天然痘は、

アステカ文明インカ帝国で猛威を振るい、

滅亡に追い込んでいます。

 

その後の人類の努力により、

1980年に、WHOが天然痘の根絶宣言をおこない、

人類が根絶に成功した、唯一の感染病となりました。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。