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ミッドウェイ海戦と情報戦争

よしをです。

 

 

太平洋戦争における転機となった海戦は、ミッドウェイ海戦です。

この戦いで、日本帝国海軍は、

保有する4隻の空母を失うという、決定的な敗北を喫し、

以後の戦いの方向性を、決定づけることになったからです。

 

ミッドウェイ海戦がおこなわれたのは、

1942年の6月5日~7日の間で、

このときまで、日本帝国海軍は、連戦連勝の勢いでした。

真珠湾攻撃ののちに、イギリス東洋艦隊を壊滅させ、マレー、フィリピン、

シンガポールインドネシアニューギニアソロモン諸島などを、

次々と勢力下に収めていきました。

 

1942年5月、日本海軍は、パプアニューギニアの要衝である、

ポートモレスビーを目指す「MO作戦」を決行しました。

アメリカ海軍との激突により、

日本海軍は、空母祥鳳を、米海軍は空母レキシントンを失い、

痛み分けとなりましたが、日本は、ポートモレスビー奪還を断念しました。

珊瑚海海戦とよばれるこの海戦は、

空母同士が対艦機を繰り出して、互いの空母を攻撃するという、

世界初の対艦航空戦となりました。

 

空母を1隻失い、快進撃がストップしたとはいえ、

依然として、戦況は、日本に圧倒的に有利な状況でしたが、

このころには、自軍の暗号が、米軍に解読されていたことについて、

日本軍は、まったく気がついていませんでした。

 

以後の日本軍の作戦は、ほとんど筒抜け状態になり、

米軍は、日本の主力空母艦隊が、

ミッドウェイに向かうという情報も、把握していました。

 

空母艦隊の指揮をとったのは、南雲忠一中将でした。

日本の空母艦隊は、ミッドウェイ島を爆撃するために、

艦載機に対地用の爆弾を搭載していたところ、米艦隊の接近を知りました。

そこで、急遽、艦載機の爆弾を、対地用から、

魚雷や対艦用爆弾に換装する作業を、はじめたのですが、

結果的には、この判断が致命傷になりました。

結果論ではありますが、もうあと5分早く、敵艦接近の情報が入れば、

爆弾の詰め替えを終えて、

艦載機を発信させられたといわれているのです(「運命の5分間」)。

 

敵機の到着が一歩速く、

空母加賀は、爆弾を満載した攻撃機でいっぱいの甲板に爆撃を加えられ、

大爆発をおこして沈没しました。

空母蒼龍も、直撃談を受け、大火災を起こして、やがて沈没し、

旗艦である、空母赤城は、直撃弾の被害は少なかったものの、

格納庫に引火して誘爆し、炎上しました。

残る空母飛龍は、少し離れた場所にいたため、難を逃れましたが、

飛龍を指揮する山口多門少将は、

独自の判断で、米空母への攻撃を指示しました。

攻撃に向かった飛龍隊は、空母ヨークタウンを中破させますが、

飛行隊を発信させ、丸腰になった飛龍は、

空母エンタープライズからの攻撃機の爆撃を受け、戦闘不能になりました。

 

その後、ヨークタウンは、戦場からの離脱を図りますが、

日本の潜水艦隊の追尾を受け、魚雷攻撃によって沈没しました。

赤城と飛龍は、駆逐艦の雷撃によって、沈没処分となり、

ブリッジに残った山口少将とともに、太平洋に沈みました。

 

ミッドウェイ海戦で、米海軍は、空母を1隻と乗員300人を失いましたが、

日本海軍は、虎の子の4隻の空母を失い、

3000人もの戦死者を出してしまいました。

 

ミッドウェイで海戦がおこなわれたとき、

近くの海域には、戦艦大和を含む、強力な戦艦部隊が控えていました。

結果論ですが、もし、戦艦部隊が海戦に加わっていれば、

戦況は、異なったものになっていたという説もあります。

 

歴史のイフを想像するのは興味深いものですが、

情報戦での敗北は、どんなケースでも決定的であり、

いろんなシミュレーションによる、局地的な勝敗の変化があったとしても、

大勢を変えることはできません。

桶狭間における、織田信長の情報収集力しかり、

現代の戦いにおいても、その重要性は決定的なのです。

 

資格試験においても、情報戦の重要性は同じかと…。

やれやれ。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。