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岩佐又兵衛と松平忠直の狂気と芸術

よしをです。

 

浮世絵の祖ともいわれる岩佐又兵衛は、

洛中洛外図屏風風舟木本」など、

数多くの傑作を世に残しています。

 

又兵衛は、戦国武将、荒木村重の子どもです。

村重は織田信長に仕えましたが、

反旗を翻したのちに敗れ、

居城の有岡城から逃亡しました。

怒り狂った信長は、城に残る家臣や女房衆は皆殺しにし、

村重の妻子は、六条河原で首をはねられました。

しかし、当時2歳の又兵衛だけは、

乳母の機転に救われ、難を逃れました。

 

一方、逃亡した荒木村重は、

信長が本能寺で斃れると、堺に現れ、

千利休に弟子入りすると、

堂々と茶会などにも出席していたそうです。

その後は、市井の庶民として、一生を終えます。

 

又兵衛は、長じると、京都で絵師として活躍しました。

洛中洛外図屏風風舟木本(国宝)」を制作すると、

大坂夏の陣ののち、越前へ移住しました。

 

又兵衛を呼び寄せたのは、松平忠直です。

忠直は、大坂の陣で,

真田幸村を討ち取った武功があるものの、

家康に冷遇され、鬱々とした日々をおくっていました。

忠直は、悪君としての評判があり、

「笑わぬ愛妾を喜ばせるために、妊婦の腹を裂いた」、

「領民を理由なく惨殺した」などの、悪行が報告されています。

菊池寛の「忠直卿行状記」でも、

忠直の異常行動が、エスカレートする様が描かれていますが、

実際に、どこまで本当のことだったかは不明です。

のちに、忠直が幕府によって追放されたことは事実なので、

なにがしかの問題はあったのでしょう。

この忠直との出会いが、

又兵衛が、狂気じみた絵巻物を作成するきっかけになりました。

 

又兵衛は、全12巻から成る、

山中常盤物語絵巻重要文化財)」を製作します。

この絵巻は、源義経の母、常盤御前をモチーフにして、

常盤御前が盗賊に殺され、

牛若丸が、仇討をする復讐劇が描かれています。

 

絵巻には、まず、

常盤が襲撃される部分が描かれています。

何人もの半裸の女衆に、複数の盗賊が襲い掛かり、

刀を突きたてている、凄惨な殺害現場です。

なかには笑みをうかべながら、

刀で胸を突いている盗賊もいます。

 

後半は、牛若丸の仇討の場面です。

牛若が、顔に奇妙な嗤いを浮かべながら、

盗賊を切り裂いている様子が描かれています。

頭から半身を真っ二つにされた,

盗賊の姿もみることができます。

 

この絵巻は、悲惨な幼少時代をすごした又兵衛と、

不遇をかこっていた忠直の、

マイナスのエネルギーのぶつかり合いを表現しているようで、

芸術のもつ狂気を、感じ取ることができます。

 

絵巻物が描かれた後、松平忠直は豊後へ配流され、

逃亡を防ぐため、監視状態におかれたまま、

56歳で亡くなりました。

一方、岩佐又兵衛は江戸に移り住み、

作画活動を続け、73歳で生涯を終えます。

又兵衛は、少なくとも1人、

子をなした(岩佐勝重)ことが知られています。

家族に縁の薄かった又兵衛にとって、

救いとなったことでしょう。

 

山中常盤物語絵巻は、

忠直の息子・光吉が転封した、

津山藩松平家で保管されていましたが、

大正時代になって売りに出され、

現在は、MOA美術館に所蔵されています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。