さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

天才脚本家 近松門左衛門

よしをです。

 

近松門左衛門(1653~1725年)は、

上方で活躍した人で、今でいうところの脚本家です。

 

歌舞伎の脚本もありますが、

ほとんどは、文楽(人間浄瑠璃)のために書かれたもので、

歴史ものを得意にしていましたが、

実際におこった事件を題材とした、

世話物という分野を確立したことで有名です。

元禄16年(1703年)、近松が51歳のとき、

最初に手掛けた世話物が、「曽根崎心中」で、

日本の演劇界に、リアリズムを持ち込んだ、

画期的な作品だといわれています。

 

大阪堂島新地天満屋の女郎はつと、

内本町醤油商平野屋の手代徳兵衛は、

恋仲でしたが、徳兵衛が、平野屋の娘と縁組して、

平野屋の江戸の店に転勤させられることになり、

一方の「はつ」は、客から身請けされることになって、

前途を悲観した2人が、

梅雨天神の森で、心中を遂げました。

 

曽根崎心中は、

この実際の情死事件をモチーフにしています。

元禄から享保にかけての、

閉塞感のただよう時代にあって、

ごく普通の市井で暮らすまじめな青年と、一途な遊女が、

世間から追い詰められて、

心中におよぶというストーリーは、

庶民のシンパシーに響いたことでしょう。

 

曽根崎心中は、7か月連続で公演される大ヒットとなり、

近松は、この最初の世話物の発表で、

浄瑠璃作家としての地位を、不動のものにしました。

 

曽根崎心中の最終段にある、

「未来成仏疑ひなき 恋の手本となりにけり」というセリフが、

市中の若者のあいだで話題になるなど、

曽根崎心中の人気は、やがて社会問題化していきました。

各地で、次々と、物語の後追い心中が発生したのです。

 

問題を重く受け止めた幕府は、

心中を厳禁し、取り締まりを強化しました。

心中した場合、死体は裸にして、

野犬が食い荒らすがままに放置し、

心中が未遂に終わった場合は、

片方が生き残れば打ち首に、

双方が生き残った場合は、町中でさらし者にしたのち、

身分を剥奪して、非人に引き渡されたといいます。

 

しかし、このような厳しい処罰は、

表沙汰になった場合のことで、

内々で処分された例が、「藤岡屋日記」に残っています。

板橋宿の遊女お亀が、

浦和の農民藤吉と短刀で心中を図ったが、

失敗して、2人とも苦しんでいるところを発見されました。

ちょうど、板橋宿では祭りの準備中で、

できればトラブルは起こしたくないと考えた、

板橋宿の有力者が協議し、

事件を代官所に届けず、内々で処理することになりました。

藤吉は喉を突いて、重体でしたが、

親元に人を走らせて、10両を渡して、身柄を引き取らせました。

お亀は療養させていましたが、

喉を突いた傷がもとで、しばらくして亡くなり、

病死として処理されました。

板橋宿では、祭りも無事おこなわれたということです。

 

その後、近松は、天保9年(1724年)の正月に上演した、

関八州繁馬」で、火を使った仕掛けが人気を呼びますが、

この興業の成功は、

大阪に大火事が発生する予兆であるという噂が飛び交い、

実際に、その年の3月に、

大阪の町の3分の2を焼く大火が起きました。

このことにショックを受けたかどうか、

近松はその年の11月に、72歳で亡くなったそうです。

 

関八州」は、平将門の乱の後日談を題材にした歴史もので、

わたしは、大火は、将門の怨霊が仇をなしたのだと思います。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。