さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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チェスの天才

よしをです。

 

将棋界では、藤井聡太七段が注目を浴びていますが、

今から約70年前、15歳の少年がチェスの世界を席巻しました。

 

ボビー・フィッシャーは、

本名をロバート・ジェームズ・フィッシャーといい、

1943年、シカゴの貧しいユダヤ人の母子家庭に生まれました。

ボビーの父親は、ドイツ生まれの生物学者

母親はスイスで生まれて

、ドイツやアメリカの大学に留学した経験を持ち、

6か国語を話せるという才女でした。

モスクワで結婚したフィッシャー夫妻は、

国内に反ユダヤ主義が広がったため、パリに移住しました。

長女をもうけた後、夫妻は別居しました。

母親は、長女と共に、アメリカに移住しますが、

母親が、シカゴでボビーを出産したときには、

ホームレス同然の状態でした。

 

ボビーのチェスとの出会いは、

ボビーの姉が、落ち着きのない弟ボビーを静かにさせるため、

チェスのセットを与えたことに始まります。

ボビーは6歳でチェスをはじめると、すぐに夢中になり、

7歳で、名門ブルックリン・チェスクラブに入会し、

12歳になると、マンハッタン・チェスクラブに入会するという、

異例の扱いを受けました。

13歳のとき、棋譜を頼りに、

ほぼ独学で、元全米チャンピオンに勝ち、

15歳にして、史上最年少のグランドマスターの称号を得ました。

天才の名を欲しいままにした、

ボビーのIQは、187だったそうです。

 

しかし、この成功が、のちの、かれの苦難のスタートになりました。

 

母親が、ソ連チャンピオンとの対戦を、

ソ連政府と直接交渉したことから、

FBIから、スパイ容疑者として、マークされることになりました。

ボビー自身も監視の対象とされ、

宿泊先のホテルでは、盗聴器を探して、

部屋の機械を、すべて分解してしまうという奇行もみられたようです。

政府の監視の目により、

少しづつ、ボビーの精神が崩れていったようで、

15歳でチェス界の頂点に立ったボビーは、

1962年、19歳のときに、突然引退してしまいました。

 

ボビーは、8年のブランクののち、

1970年の世界戦で復帰しました。

ソ連デンマークのチャンピンらに、立て続けに勝利し、

世界チャンピオン、ボリス・スパスキーへの挑戦権を獲得します。

1972年に、アイスランドでおこなわれた、

スパスキーとの対戦に勝利し、

ボビーは、世界チャンピオンになりました。

 

ボビーは、被害妄想や放浪などの奇行が目立つようになり、

1975年には、防衛戦の運営方法をめぐって、

国際チェス協会とトラブルになり、

チャンピオンの座を返上することになり、

再び引退状態になりました。

 

その後は、信仰していたアメリカの宗教団体の施設で暮らし、

長い隠遁生活が続きました。

ハンガリーの女性チェスプレイヤーから手紙を受け取り、

1992年に、ユーゴスラビアでスパスキーと再戦し、

勝利しますが、

これが、公式に行われた最後のチェスの対戦になりました。

 

当時、アメリカ政府はユーゴスラビア経済制裁を課していて、

300万ドルの賞金を得たボビーを、

制裁措置違反として、アメリカ国籍を剥奪しました。

 

ボビーは、世界中を転々としていたようで、

2000年ごろは、フィリピンと日本を、生活拠点にしていたようです。

2004年、ボビーが成田空港から、

フィリピンに出国しようとしていたところ、

入国管理法違反の疑いで収容され、

かねてから同居していた、

日本人女性の存在も、明らかになりました。

羽生善治名人が、小泉首相宛に嘆願書を提出するなど、

著名人や政治家の支援の結果、

アイスランド政府がボビーに市民権を与え、

晩年はアイスランドで余生をおくり、

2008年に、64歳で死去しました。

 

羽生善治名人は、ボビー・フィッシャーを称して、

「チェス界のモーツアルト」と答えています。

 

誰もが認める天才であること

その天才性を簡単に知ることができること

チェスと別の分野に大きなギャップがあること

 

また、羽生さんは、

ボリス・スパスキーにも会ったことがあるそうで、

その人柄は、気さくで冗談好きな人物だったと、

著作のなかで語っています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。