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江戸の火事と芸術と鎮魂と

よしをです。

 

「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉もありますが、

なるほど、江戸の町は、火事の多いところでした。

1600年から1867年の大政奉還まで、

江戸では、実に49回の大火が発生しました。

小規模の火事に至っては、

記録に残るだけで、同じ期間に、1800回近くも起こっています。

 

火事が頻発した理由は

、なにより、木造建物の密集が原因ですが、

失火だけでなく、放火も多く記録されています。

放火の原因は、いくつかあります。

風の強い日に火を放ち、

火事場のどさくさに紛れて盗みをおこなう、火事場泥棒や、

主人への不満や男女関係、商売関係など、

特定の人間に対する、怨恨や報復に起因する放火も、

多く記録されています。

 

放火は現代でも重罪ですが、江戸時代は死罪です。

放火犯が逮捕されると、

見せしめのため、市中引き回しのうえ、火あぶりにされました。

幕府は、火事に対して危機感を抱いていたのです。

 

江戸時代を通して、もっとも有名な放火犯は、八百屋お七でしょう。

この事件は、当時から有名で、

文芸作品では

井原西鶴の「好色五人女」や、鶴屋南北の「敵討櫓太鼓」、

文楽浄瑠璃では「伊達娘恋緋鹿子」、

歌舞伎では「八百屋お七歌祭文」など、

落語でも、いくつかの噺の題材として、取り上げられています。

 

お七の一家は、大火で焼き出され、

王仙院という寺に避難しますが、

そこで、お七は、寺の小姓・生田庄之介と恋仲になります。

家が再建され、一家は寺を引き払うことになったため、

お七は、庄之介と離れ離れになりますが、

もう一度、自宅が燃えれば、

また庄之介に会えると考えたお七は、

自宅に放火します。

幸い、ボヤで消し止められたものの、放火は火あぶりの重罪です。

江戸の法律では、

放火は15歳を過ぎれば死罪、15未満は遠島という定めです。

お七は16歳だったため、死罪となり、

鈴ヶ森刑場で火あぶりにされました。

 

以上が、物語で語られている、事件の概要です。

 

しかし、正式な記録によれば、

駒込のお七付火乃事、此三月之事にして二十日自分よりさらされし也」

とあるだけで、それ以外の情報はありません。

お七の年齢(数え16歳なので、14~15歳)や、

放火の動機などは明らかでなく、処刑の様子も伝わっていません。

それどころか、お七の実家が八百屋だったかどうかも怪しいのです。

物語のお七は、神格化されているのです。

 

1683年に起こった大火は、

おりからの西風に乗って、瞬く間に駒込から神田一帯に広がり、

さらに墨田川まで到達した火は、

対岸の深川や領国にも燃え広がりました。

被害は数万戸に及び、3500人の死者を出す、大災害になりました。

 

この大火を、「お七火事」といいます。

火元が、お七の自宅があった駒込であり、

しかも寺の失火だったということで、

江戸の人びとは、お七の事件を想起したのでしょう。

その名には、お七の鎮魂とともに、

彼女に江戸の町を守ってほしいという、

庶民の思いが、込められていたのかもしれません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。