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翡翠文化

よしをです。

 

縄文時代の前期(BC3000~2000年)には、

新潟の糸魚川周辺で、すでに翡翠の加工がはじまり、

その後、古墳時代まで、

勾玉などの装飾品がつくられました。

糸魚川翡翠加工のはじまりは、

世界最古の翡翠文化であったとされています。

 

翡翠は、ナトリウムを主成分として、

アルミニウムやケイ素といった、

自然界で、ごくありふれた成分で構成されていますが、

そのなかに、クロムや鉄などが

 

少量含まれることによって、

緑や紫などを発色します。

 

広い意味での翡翠(ジェイド)には、硬玉と軟玉があり、

通常、翡翠といえば硬玉のほうを指します。

世界中で、宝飾品として認められている翡翠の産地は、

糸魚川のほかに、ミヤンマーの北部カチン州、

カザフスタンロシアのウラル山脈

ロシアのアバカン、グアテマラのみです。

 

メキシコ湾岸で発展した、オルメカ文明は、

翡翠の彫像などの遺物を残しました。

長い間、翡翠の産地が謎でしたが、調査の結果、

グアテマラ産であることがわかっています。

 

耳飾りは、

縄文人が好んで身に着けたアクセサリーでした。

女性は、C状のイヤリングを、

耳に穴をあけて通していましたが、

柔らかい材質の翡翠は、

加工が容易で、イヤリングとして最高の素材でした。

栃木県の古谷遺跡からは、多くの人骨に混じって、

ごくわずかに、翡翠の耳飾りをつけた

人骨が発見されていますが、

耳飾りをつけることができたのは、

縄文時代のムラの有力者だったと考えられています。

 

その後、翡翠は、呪術や祭祀に用いられました。

初期には 大珠がつくられ、

やがて勾玉がつくられました。

大珠や勾玉は、北海道から九州まで、

広く出土していて、

糸魚川から全国に運ばれたことがうかがえます。

 

三国史記には、

百済倭国に遣使して求めた大珠(翡翠)の記録があり、

魏志倭人伝にも、邪馬台国から魏への朝貢品に、

青大勾玉という名の翡翠が含まれていたと記録されています。

糸魚川で産出した翡翠が、日本各地だけに留まらず、

さらには、遠く大陸にまで渡ったというのは、驚きです。

 

このように、海外まで席捲した翡翠ですが、

古墳時代の後期には、

勾玉の材料が多様化し、

金銀などの貴金属が主流になったため、

翡翠の需要は急減し、8世紀になると、

翡翠製の勾玉や宝飾品は、

完全に姿を消してしまいました。

 

翡翠製の勾玉は、骨董の世界でも、需要があります。

ヤフオクでも出品されていますが、発色のいいものは少なく、

それも、本当の翡翠ではなく、

ニセモノの可能性が大いにあります。

もし、発色のいい勾玉が出品されていたとすれば、

それは、疑いなく、現代に加工されたものでしょう。

 

中国や東南アジアなど、

海外の宝飾店などで売られているものは、

避けた方が無難です。

天然の翡翠とうたっていても、

ただの青っぽい石だったり、染色されたものだったり、

さらにひどいものだと、

プラスティックやガラス製のものもあるので、

注意したいところです。

 

まがい物の翡翠には、呪術的なパワーはありません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。