さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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井戸の茶碗

よしをです。
改易という言葉を聞くと、一般的には、
江戸時代の大名や旗本の、身分の剥奪と、領地の没収のこと、
いわゆる「お取り潰し」を、イメージすると思います。

改易が頻繁におこなわれたのは、江戸時代初期のことです。
内戦の戦後処理のために、多くの大名が処分されましたが、
大坂の陣以降、国内から戦乱がなくなると、
世継ぎの不在や、法律違反を理由に、改易がおこなわれています。
外様大名の勢力を弱めることが、幕府の一義的な目的でした。

三代将軍家光の時代までは、多くの大名が改易の憂き目に遭いますが、
時代とともに、その数は減少していきます。
職を失った浪人が増えて、政情不安になったことが、その理由です。

代表的な事件といえば、1637年におこった、島原の乱です。
この籠城戦には、キリシタンや農民に、浪人が加わりました。
これらの浪人には、キリシタン大名で、関ケ原では西軍で戦った、
小西行長の元家臣が多く含まれていました。
実戦経験豊富な浪人が、戦闘を指導したため、乱は長期化しました。

大名が改易されると、当然ながら、家臣もその地位を失います。
他家に再就職できるのは、一芸に秀でた者か、運のよい者だけで、
多くは、浪人になりました。
生活が困窮し、悲惨な末路をたどる者もいるなか、
浪人が、江戸時代の社会に大きな貢献をしたという一面もあります。

社会が安定すると、
江戸などの都市部では、教育の需要が高まりました。
武士というのは、元来、識字率が高いため、
かれらは、寺子屋の先生として、就職することができましたし、
そのほかには、行儀作法や、子どもの名付けや代筆なども、
浪人となった武士の、あらたな仕事となりました。
読み書きの座学だけではなく、剣術道場を開くこともありました。

経営コンサルタントのような仕事もありました。
各藩や商家の財政の指南役となり、経営改善などをアドバイスする、
「仕法家」と呼ばれる職業です。
そろばんに強い、諸藩の元財務担当が、このような仕事を請負いました。
池波正太郎の「剣客商売」に登場する、笠原源四郎という人物は、
元は紀州出身の浪人ですが、
田沼意次が、経営アドバイザーとして招いたほどの優秀な人物であり、
小野派一刀流の使い手だとされています。

 

麻布茗荷谷に、くず屋の清兵衛という正直者がいました。
ある日、横丁で、品のある、器量よしの娘に呼び止められ、
父(千代田卜斎)から預かった仏像を買って欲しいといわれました。
清兵衛は仏像を200文で買い受け、細川邸を通りかかると、
家臣の高木佐久左衛門が見つけ、仏像を300文で買い取りました。

高木が仏像を磨いていると、
台座の紙が破れ、中から50両の大金が出てきました。
高木は、苦労して清兵衛を探し回り、見つけると、
「仏像は買ったが、50両は買った覚えがないので返す」、といいます。
清兵衛は、50両を卜斎に返しに行きますが、
卜斎は、「一旦売った仏像から何かが出ても、自分の物ではない」と、
こちらも金を突き返します。
再び、高木のところに行っても、50両を受け取りません。
困った清兵衛は、卜斎の住む長屋の大家に相談し、
卜斎と高木に、それぞれ20両づつ、清兵衛が10両受け取る形にし、
卜斎は、20両のカタに、所有する古い茶碗を高木に渡すことで、
この場は収まります。

このいきさつを聞いた細川の殿様が、高木が貰った茶碗を見ると、
この茶碗が、「井戸の茶碗」という、名器であることがわかり、
殿様は、300両で茶碗を買い取りました。
高木から、300両の半分の150両を渡された清兵衛が卜斎に届けると、
勿論、卜斎は受け取らず、
卜斎には、もう高木に渡せるものがないとして、
この150両を支度金として、娘を高木に嫁がせたいといいます。
高木にも、異論はありません。
「娘さんは、磨けばもっと気品のある女性になるでしょう」、
という清兵衛に対して、高木は、
「磨くのはよそう。また、小判が出るといけない」。

幸せなセカンドライフを送ることができた浪人は、一部に過ぎません。
この噺からは、落剝した浪人の苦労を知って、
せめて、噺の中では望外のハッピーエンドを迎えてほしいという、
江戸庶民の心情の温かさを感じることができます。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。