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白と黒

よしをです。
薩摩の島津義弘は、80人以上の朝鮮人陶工を連れ帰りました。
陶工らは、藩内の各地に窯を開くことを許され、
苗代川系、堅野系、龍門司系、西餅田系と平佐焼が生まれました。
各窯場では、立地や陶工の作風によって、工夫を凝らし、
さまざまな作品がつくられましたが、
これらを総合して、薩摩焼といいます。

薩摩焼には、「白薩摩」、「黒薩摩」の2種類があります。

白薩摩は、白い陶土で器体を成型し、透明釉をかけたものです。
朝鮮陶磁の流れをそのまま汲む製作方法で、
器体の表面に、細かい貫入(ひび)が入るのが特徴です。
当初は、陶工が朝鮮から持参した陶土が使われました。
初期の作品は、焼成以外は、材料も技術も朝鮮由来だったので、
「火計手(ひばかりて)」と呼ばれていました。
ネーミングに洒落がきいています。
のちに、藩内でも白い陶土が発見され、
苗代川系と堅野系(薩摩藩の認定官窯)で焼かれました。

白薩摩は、島津家だけが使用できる秘伝の品で、
一般庶民の目に触れることはありませんでしたが、
その後、藩では、京焼の絵付け技術を取り入れ、
色絵や金襴手と呼ばれる華麗な作品を完成しました。
慶応3年(1867年)に、島津藩はパリ万博に白薩摩を出品しました。
パリ万博をきっかけに、西欧にジャポニズムブームが起こり、
白薩摩は、「SATUMA」の名で広く知れ渡り、
ガラス製品の薩摩切子などとともに、
薩摩藩の有力な輸出品になりました。

輸出された白薩摩の一部は、
里帰りする形で、日本国内に戻ってきています。
これらの作品は、もともと観賞のためだけに作られたものであり、
西欧人のジャポニズム好みの、きらびやかな作風なので、
日本人の陶磁器コレクターの趣味とは離れているように思うのですが、
数が少ないので、高値で取引されているようです。

その一方、黒薩摩は、庶民の雑器として愛されてきました。
桜島の火山灰は、鉄分を多く含んでいるので、
この土を使うと、真っ黒な焼き物が出来上がります。
高温で焼き締めるため、仕上がりは頑丈で、
普段使いの器にぴったりの生活雑器です。
釉薬のほかに、褐色の釉薬なども使い、
官窯の堅野系と磁器の平佐焼以外の窯で、焼かれています。
代表的なものは、
焼酎の燗をする土瓶(じょか)や、徳利(カラカラ)です。

わが家にも、黒釉のじょかと、対の猪口があります。
骨董品ではなく、
鹿児島土産にと、3000円ほどで求めたものですが、
素朴な味わいがあります。


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