さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

万人恐怖

よしをです。
室町幕府4代将軍足利義持が危篤に陥り、後継ぎを決めずにいたため、
幕府は混乱しますが、管領畠山満家らのはからいで、
石清水八幡宮のくじによって、
義持将軍の4人の弟のうちから、跡目を決めようということになりました。
実際には、次代将軍は、聡明で知られる義教に決まっていて、
くじびきは出来レースだったという説も根強いのですが、
くじの結果、当時、天台座主であった足利義教が、
還俗して、5代将軍に指名され、それを見届けて義持は没しました。

ときもおり、称光天皇が危篤になり、
将軍家同様、後継者が決まらない状況にあって、
義教将軍の最初の大仕事が、この問題を解決することでした。
当時は、南北朝の争いがようやく終結したところで、
皇統の争いが再燃する可能性がありましたが、
義教は、後花園天皇を即位させて、崇徳上皇の系譜に皇統を戻し、
朝廷の納得のいく決着をみることができました。

義教の目標は、父親の足利義満時代の、幕府の権威を取り戻すことでした。
義満がおこなったように、富士山を遊覧し、勘合貿易を復活し、
将軍自らが政治を主導するために、御前沙汰を採用しました。
軍政においては、将軍の親衛隊である、奉公衆を組織しました。

義教は、古巣の延暦寺にも容赦ありませんでした。
弟である足利義承を天台座主にし、押さえつけようとしますが、
延暦寺は反発し、
反対勢力である、ほかの寺院を焼き討ちする始末でした。
義教は、自ら軍勢を率いて延暦寺を包囲し、一旦は武装解除しますが、
翌年には、延暦寺鎌倉公方足利持氏と密通し、
義教に呪詛をかけているという噂が流れると、
激怒した義教は、六角氏と京極氏に命じて、
比叡山兵糧攻めにし、火を放ち、
延暦寺からの和睦の使者を斬殺して、延暦寺の力を封じ込めました。

鎌倉公方足利持氏の、反抗的な態度に激怒した義教は、
持氏の討伐を命じました。
持氏は、降伏し、剃髪したにもかかわらず、義教は許さず、
一族もろとも処刑してしまいました。

いつしか、義教は恐怖の魔王と恐れられるようになりました。
大和では、南北朝の争いが再燃して有力国人同士の騒乱が起こり、
義教は力づくで解決を図りますが、大和はカオス状態になります。

義教は朝廷からの印璽を受け、次々とトラブル処理に向かいますが、
猜疑心にかられて、独裁制を強めていきました。
その苛烈な姿勢は、日常生活にも及びました。
料理がまずい、酌の仕方が悪い、儀式の際に笑顔になったなどの、
些細なことで、近習の者を殴打したり、罵倒したりといった、
粗暴な振る舞いがみられました。
後崇光院の日記「看聞日記」は、義教の恐怖政治について、
「万人恐怖、いうなかれ、いうなかれ」、とつぶやいています。

義教の最期は、あっけないものでした。
有力守護大名の赤松満祐が、義教を自宅に呼び寄せ、
居並ぶ大名と共に、猿楽を鑑賞しているところ、殺されてしまったのです。

義教の弱点は、理想を求めるあまり、リアリストでありすぎたことでした。
単純にいえば、厳しすぎて、人気がなかったこと。
残念ながら、経営者としては失格の部類に入るでしょう。

足利義教の生き様は、のちに織田信長にもヒントを与えたとされています。
義教が赤松満祐に討たれたのは48歳、
信長が明智光秀に討たれたのは49歳のときでした。
ともに比叡山を焼き討ちし、第六天魔王と呼ばれた二人は、
不思議にも、同じような経緯をたどることになりました。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。