さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

七本と九本

よしをです。
天正11年(1583年)、豊臣秀吉柴田勝家は、
琵琶湖の北にある賤ケ岳で合戦し、秀吉軍は柴田軍を破りました。
この合戦で手柄を立てたのは、
福島正則加藤清正加藤嘉明片桐且元脇坂安治平野長泰
糟屋武則の7人で、世に、「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれました。

賤ケ岳の合戦ののち、
秀吉軍は勝家の本拠地である、越前北ノ庄まで攻め入り、
柴田勝家は自刃しました。
七本槍のメンバーには、秀吉から感状が下され、
功第一とされた福島正則には5千石が、
ほかの六名の若侍には、3千石が加増されました。
親族がほとんどいない秀吉は、かれらを実力以上に取り立てて、
直参武将として育てようとしていたのでしょう。

その後、秀吉が天下を獲ると、かれらもそれぞれ出世しました。
福島正則今治10万石から清州24万石に、
加藤清正は肥後20万石に、
加藤嘉明は淡路1万5千石から伊予松前6万石に、
脇坂安治は能勢1万石から高取2万石を経て、洲本3万石に、
それぞれ加増され、
浅井長政の家臣だった片桐且元は、1万石を与えられ、
糟屋武則は、もともとは別所家家臣でしたが、
独立し、加古川1万石が与えられました。
平野長泰には大和十市5千石が与えられましたが、
秀吉の評価が低かったせいか、以後は加増されませんでした。

関ケ原の合戦以降、かれらの運命は大きく変わります。

関ケ原で東軍に与したのは、福島、加藤清正、嘉明、平野の4人です。
福島は、戦後、安芸備後49万石の大大名になりました。
広島城の無断改築が原因で改易されたのち、一旦出家しますが、
信州川中島4万5千石が与えられ、信州で生涯を終えます。
その子孫は、旗本として明治まで続きました。

加藤清正も東軍に与しますが、実際には参戦せず、
戦後は肥後一国54万石を与えられました。
豊臣秀頼の後見的な立場となり、家康との融和に腐心しますが、
大坂の陣の前に、亡くなっています。
加藤家は、三男の加藤忠広が跡を継ぎますが、改易され、
子孫は山形に移住して庄屋になったと伝えられています。

加藤嘉明は、戦後は伊予松前20万石に加増され、
のち会津若松で40万石を拝しますが、
嘉明の子の明成が、お家騒動により改易され、
その庶子の明友が近江水口を与えられ、幕末まで続きました。

秀吉から冷遇された平野長泰は、所領を安堵され、
平野家は、幕末まで旗本として存続しています。

西軍に加わったのは、脇坂、糟屋、片桐の3人です。
脇坂は、当初は西軍に属しましたが、乱戦のなか、東軍に寝返りました。
関ヶ原ののち、伊予大洲4万5千石になりました。
脇坂の養子は播磨龍野に移封され、幕末まで続きました。

糟屋は戦後、所領を没収され、その後の去就はわかっていません。

片桐は、秀吉の死後、豊臣家家臣でありながら、徳川与力であるという、
不思議な立場におかれます。
関ケ原前後の時期には東軍に内通し、その功績が認められて、
戦後は大和竜田2万4千石を得ました。
大坂の冬の陣では、大坂城の籠城に加わりますが、
徳川家康と内通して、籠城軍を説得するなど、講和を陰で導き、
夏の陣では、家康側に加わりました。
のちに、4代目の早世により、竜田藩は改易されて断絶し、
片桐家は且元の弟の家系が、大和小泉藩で幕末まで続きました。

加藤清正の三男の加藤忠広は、お家騒動により熊本藩を改易され、
配流先の山形で、男女2人の子を得ました。
男子は加藤光秋を名乗りますが、以降の消息は不明です。
女子は婿をとり、その子孫は、加藤与治左衛門を名乗りました。
与治左衛門の宗家は、女性科学者の草分けで知られる、
理学博士の加藤セチ氏を生みますが、
その息子が太平洋戦争で戦死し、断絶したといわれています。

時の運を得て、功を成したとしても、
その先も、運に恵まれて、生き残れる保証はなく、
さらに、その子孫の去就について考えをめぐらせると、
諸行無常を感じずにはいられません。

実は、賤ケ岳の功労者には、
石河兵助桜井佐吉という2人の若侍もいました。
本来であれば、九本槍とでもいうべき活躍をしたのですが、
2人とも、ほどなく病死したため、功労者には加えられませんでした。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。