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捕鯨アレルギーのなぜ

よしをです。
四方を海で囲まれた日本では、
古来から、クジラを食料として利用してきました。
日本近海はクジラの回遊路であり、
少なくとも、縄文時代から、沿岸に座礁したクジラを、海からの恵みとし、
食用のほか、骨やヒゲを生活雑器として加工していたことがわかっています。

古代、クジラは、鯨魚(いさな)と呼ばれ、
万葉集にはクジラを詠った歌がいくつも残されています。
仏教伝来後、肉食が禁忌とされましたが、
クジラは獣ではなく、魚の一種とされていました。

江戸時代初期に、鯨組といわれる組織的な捕鯨がはじまりました。
歌川国芳の浮世絵には、「宮本武蔵の鯨退治」があり、
わたしの大好きな伊藤若冲の「象と鯨図屏風」には、
生き生きとしたクジラの姿が描かれています。
(MIHO MUEUMという滋賀県の美術館の所蔵です)。

江戸時代末期に、アメリカの捕鯨船が日本近海に現れ、
クジラを乱獲し、日本の沿岸捕鯨は衰退しました。
かれらの目的は、油でした。
石油が普及するまで、
鯨油は蝋燭、ランプ、産業用オイルとして重宝されていました。
食用にするのは稀で、同時代に書かれたメルヴィルの「白鯨」では、
アメリカの捕鯨船員が、マッコウクジラの肉をステーキにして食する場面を、
ゲテモノ食いの扱いで描いています。
アメリア船は、クジラを捕らえると、
油を採取したあとは、打ち捨てられていたわけですから、
日本の捕鯨より、よほど残酷な話です。

明治以降、ノルウェイから捕鯨砲が導入され、
日本の捕鯨は、世界中の海に広がりました。
戦後の食糧難の時期をはじめ、
かつては、学校給食でも、クジラは供されていました。
わたしも、クジラの竜田揚げを懐かしく思う世代のひとりです。

さて、20世紀の後半になると、捕鯨に対する風当たりが強くなりました。
1948年には国際捕鯨委員会(IWC)が設立され(日本も1951年加入)、
資源保護の規定が定められました。
クジラを食用としない各国が、捕鯨から撤退したのですが、
環境保護活動のシンボルとして、反捕鯨が取り上げられるようになり、
日本その他の捕鯨国への風当たりが強くなりました。

捕鯨に関して、日本ばかりが、国際社会から非難されているように感じます。
インドネシアやカナダは、もともとIWC未加盟で捕鯨をしていますし、
ノルウェイアイスランドアメリカ、ロシアは、
IWCに加盟したままで、捕鯨を続けています。

アメリカ、ロシアは、
先住民生活捕鯨として、例外的に捕鯨を認めているため、
日本などの商業捕鯨とは位置づけが異なるということで、
非難の対象になっていません。
しかし、ノルウェイアイスランドは、
最初から商業捕鯨をしているのに、ほとんど非難されていません。

IWCは1982年に、商業捕鯨の一時停止(モラトリアム)を採択し、
これを受け入れた国は、商業捕鯨ができなくなりました。
ところが、IWCに加盟したまま、商業捕鯨を続ける方法もあったのです。
モラトリアムに異議申し立てをすれば、
その決定に従わなくてもよい、という決まりがあったからです。
ノルウェイアイスランドは、一貫してモラトリアムに異議申し立てをし、
現在でも、堂々と商業捕鯨を続けています。

日本はというと、一度は異議申し立てをしたのですが、
その後、取り下げたため、商業捕鯨ができなくなりました。
これにはアメリカの陰謀があります。
アメリカ政府は、日本がモラトリアムを受け入れなければ、
アメリカ近海(200海里)から日本の漁船を締め出す、
という圧力をかけたからです。

やむなく、日本はモラトリアムを受け入れ、捕鯨を続けるために、
調査捕鯨というまやかしで、商業捕鯨を継続しました。
このことが、よけいに、
捕鯨組織の怒りに火をつける結果となっているのです。
そもそも、ノルウェイアイスランドが、
自国のEEZ内に限定して捕鯨をおこなっているのに対して、
日本は南氷洋まで出て捕鯨を続けていることで、
反感を倍増させています。

日本は、2019年4月にIWCを脱退しました。
これで商業捕鯨は再開できますが、
南氷洋への遠征は、反捕鯨派の反感を買い続けるでしょう。
捕鯨団体としても、日本を非難する理由があるというわけです。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。