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猿投のやきもの

よしをです。
愛知県豊田市に、
猿投(さなげ)山という標高600メートルほどの低い山があり、
山の西南麓に古窯群があります。
その歴史は古く、奈良、平安時代から鎌倉時代まで、
大小の壺や、椀や皿などの生活雑器をつくり続けました。

長らく、日本では、黒い土を焼いた、土師器のような、
素焼きの焼き物しかありませんでした。
奈良時代には、大陸から、遣唐使船によって、
つやつやの唐白磁や、美しい彩色が施された唐三彩が輸入されました。
国内でも、舶来の技法で、
唐三彩を模した、「奈良三彩」がつくられましたが、
古代の日本人には、とくに、白磁に対する憧れが強かったようです。

白磁に魅せられた、この地域の陶工たちは、
山を探し回り、猿投で白い陶土を発見しました。
そして、最初に焼かれたのが、原始的な猿投焼です。
わたしの手元にも、猿投の山茶碗といわれる椀があるのですが、
軟陶の無釉薬陶で、白というよりは、
コンクリートのような、グレーに近い発色をしています。
漆喰のような、かさかさで粉っぽい感触があり、よく水を吸い、
正直、食器には使えそうもありません。

さらに、猿投の陶工は、あらたな作品を生み出しました。
かれらは、灰釉(かいゆう)という釉薬を発見したのです。
灰釉の発見は、最初は偶然の産物でした。
やきものを焼成する際、赤松などを燃料として使うのですが、
木材の灰が器体に降り積もると、不思議な効果が現れました。
灰の成分には、カルシウム、カリウム、ナトリウムなどの、
アルカリ性金属が多く含まれていて、
これらの金属は、高温で熱すると、ガラス化する特徴をもっていたのです。

灰を集めて水で溶かし、作品に塗って焼成してみると、
淡緑色や黄緑色のガラス質の被膜が形成されました。
さらに、のちの日本美術への影響を与えることになったのが、
「玉垂れ」の技法です。
釉薬を多めに壺などの作品の肩に塗ると、
焼成時に溶けて、胴体を波打つように流れ落ちます。
趣味人は、この模様を楽しみました。

現在では、文化財保護の立場から、立入制限されていますが、
昭和50年代に、本格的な発掘調査がおこなわれるまで、
猿投では、自由に窯跡を掘ることができ、
無数に出土する陶片などを、勝手に持ち帰れるような状態でした。

当時の猿投の窯は、地面を掘ってつくる穴窯でした。
何度か使って、窯が傷んでくると、
場所を変えて、あたらしい窯をつくるということを繰り返すため、
猿投から西三河山麓まで、周辺一帯には、
それこそ、無数の廃窯が点在するのだそうです。
おそらく、未発見の古い窯跡もあるのではないでしょうか。
しかし、平安時代末期になると、猿投窯は衰退し、
瀬戸、美濃、常滑、渥美など、周辺の窯場に、技術が拡散していきました。

猿投の山茶碗や山皿は、焼成時に失敗して捨てられたものか、
何枚もくっつき、重なった状態で、打ち捨てられている状態のものが多く、
地方の骨董展などでも、その状態のものをよく目にします。
これを求めて、根気よく、一枚ずつ剥がしていくと、
思わぬ傑作に出会えるかもしれないというのも、
古窯コレクターの楽しみだったりします。


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