さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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成功者たる理由

よしをです。
今川義元は、桶狭間の戦いで命を落としました。
領国の駿河三河は、肥沃で温暖な土地ですが、
東は北条氏康、北は武田信玄という有力戦国大名に囲まれ、
治めることが難しい土地でした。
長らく、今川氏は、武田氏とは対立関係にありましたが、
義元の代になって、武田氏と姻戚関係を結び、
さらには、軍師の太原雪斎の働きにより、
武田氏とは対立関係にあった、北条氏との三者間で、
甲相駿三国同盟とよばれる不可侵条約を締結し、
地域の安全をコントロールすることに成功しました。
2方面の安全を確保したうえで、義元は尾張に進軍しましたが、
信長の仕掛けた奇襲戦で敗死し、三国同盟は瓦解しました。

義元の死後、今川氏真が跡を継ぎましたが、
混乱に乗じて、松平元康(徳川家康)が西三河で独立し、
東三河でも、多くの土豪が離反して、松平傘下に結集しました。
隣国の駿河にも動揺が広がった結果、駿河はカオス状態に陥り、
氏真は、離反した家臣を粛清することで事態の収拾を図りますが、
かえって人心の離反を招き、さらに国勢が傾きました。
そして、今川義元が没してから9年後に、
今川氏真は、武田信玄と家康に攻められ、国を追われました。

織田信長が、桶狭間の戦いののち、向かったのは、
今川義元がいなくなって弱体化した駿河ではありませんでした。
信長は、三河で独立した徳川家康と同盟関係を結び、
千載一遇のチャンスをとらえ、一気に西へ向かいました。
時の運もあったでしょうが、まぎれもなく、これは信長の才能です。

現代人からすれば、
信長が、天下を獲るために、一気に上洛したのは当然だと考えますが、
それは、われわれが、結果を知っているからいえるだけのことで、
同族との内戦の結果、ようやく尾張国内を平定したばかりの信長が、
天下を狙うことは、現実的に考えにくい状況でした。
それでも、この段階において、信長には確信があったのです。

同盟関係にあった、美濃の斎藤道三の討死も、
信長の西進の後押しになったでしょうが、
今川義元を討ち取るまでの信長と、その後の信長では、
あきらかに世界観が変わっています。

信長は、強敵の斎藤義龍を亡ぼすと、南近江の六角氏を破り、
大和に遠征していた三好三人衆を阿波へと追い落とし、
上洛を果たしました。

もし、信長が東に向かっていたら、どうなっていたでしょうか。
三河から駿河までは、手中に収めることができたでしょう。
しかし、その後は、
武田信玄北条氏康との終わりのない戦いに巻き込まれて、
結果的に、上洛を果たすことが叶わなかったかもしれません。
あえて、簡単に手に入る駿河を放棄し、
同盟関係となった、徳川家康の切り取り放題にさせておいて、
自身は、もっと大きな果実を手に入れることに集中したのです。

駿河の国盗りにおいて、武田信玄の逆鱗に触れた家康は、
信玄の上洛軍とまともに激突して敗れ、多くの武将を失い、
自身は、敗走中に、恐怖のあまり脱糞してしまうという、
醜態をさらしました。

一方の信長は、戦国最強の武田信玄との争いを徹底的に避け、
縁戚関係を結ぶなど、懐柔に努めてきました。
最終的に、延暦寺を追われた天台座主足利義昭の要請により、
信玄はようやく西上し、家康を一方的に蹂躙したのち、
信長と相まみえる直前になって、陣没してしまうのですから、
まさに、天は信長を味方したといえるでしょう。

現代社会でも、ビジネスや政治の世界には、
才能と運を味方につけた成功者がいるものです。
成功者となるためには、才能だけでもダメ、運だけでもダメ。
わたしにも、ささやかでいいので、少しばかりの成功を…。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。