さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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ビジネスの参考にはならない

よしをです。
劉邦軍は、項羽の率いる主力部隊が遠征で出払った隙を狙って、
本拠地である彭城に奇襲をしかけました。
劉邦は、一旦は城を攻略しますが、怒り狂った項羽が戦地から引き返すと、
パニック状態になり、たちまち雪崩を打って敗走しました。
全軍敗走のなかでも、真っ先に逃げ出したのは、
ほかならぬ総大将の劉邦でした。

史記の記録によると、
劉邦は、息子と娘を乗せて、馬車で一目散に逃走しましたが、
項羽軍の騎兵の追走を受けると、荷物を減らして馬を早く走らすために、
ふたりの子どもを馬車から突き落としました。
馭者の夏侯嬰が、あわてて飛び降りて子どもたちを拾い上げると、
劉邦は二人の子どもを車から落とすことを、三度も繰り返しました。

自分が助かりたい一心で、わが子の命を犠牲にすることすら躊躇しないのが、
劉邦という男の人間性なのです。

劉邦のもとで、軍師として活躍した陳平は、
「大王(劉邦)は傲岸不遜なお振る舞いが多く、廉節の士は集まりませんが、気前よく爵位や封邑をお与えになるので、利につられやすく、恥知らずの連中が多く集まっております」と語っています。

もともとのやくざ者の集団に、
盗賊の首魁でゲリラ戦を得意とした彭越や、
犯罪者として、顔に刺青(黥)をいれられていた黥布(本名は英布)らの
ならず者が、続々と劉邦軍に参加し、
のちに、国士無双といわれた、
軍事の天才・韓信は、項羽を見限って劉邦軍に加わりました。
かれもまた、虚言癖のあるヤクザ者でした。
そして、劉邦の面前で、その欠点を平然と語った陳平自身も、
人を陥れることを躊躇しない、得体の知れない人物でした。

このような、利につられた恥知らずの連中の集合体である劉邦軍が、
豪傑無比の項羽を打ち負かすという理不尽な結果は、
「悪いヤツが勝つ」という、中国史の鉄則を物語っています。

劉邦は、天下を平定したあと、それまでの気前の良さが姿を消し、
利につられた連中の造反を恐れるようになり、
彭越、黥布、盧綰(逃亡)、そして最大の殊勲者である韓信など、
多くの功臣が粛清の対象となりました。

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」の影響もあるでしょうが、
劉邦は日本でも人気があり、その無手勝流の戦いぶりや、
無頼への憧れ、才能を受け入れる度量の大きさなどが注目されています。
ビジネス書などにも、「劉邦の生き方に学べ」といった主張がありますが、
おぞましいとさえ思える、劉邦の冷徹さや、
人間性の奥底の醜さに注目した言及は、ほとんどありません。

現代にたとえるなら、劉邦のビジネスは、
社会不適合の連中を集めた、ヤクザのフロント企業のようなものですから、
成功の結果だけをとらえて、ビジネスの参考にするというのは、
正直なところ、如何なものかと思います。

確実にいえることは、平和と中庸を愛する日本人から、
劉邦のような、非情な人物は生まれないということです。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。