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2人の倭寇

よしをです。
対馬を攻略したのち、元軍は壱岐に上陸しました。
壱岐国守護・平景隆は、わずか100人の手勢で立ち向かいましたが、
あえなく全滅し、住民は老若問わず殺されました。
赤ん坊は股裂きにし、妊婦は腹を切り開いて胎児を取り出し、
残る住民は捕らえて手に穴をあけ、数珠つなぎにして船に吊るしました。
最初の元寇で生き残った島民は、
わずかに65名だったという記録が残っています。

元軍は、ふたたび壱岐に進出しました。
前回の攻撃で、住民はほとんどいなくなり、島は荒れ果てた状態でしたが、
九州から出兵した鎌倉武士と、わずかな移住者が果敢に元軍と戦い、
やはり、前回同様の殺戮がおこなわれました。

元寇ののち、ほとんど無人となった壱岐に、
九州から移住者が集まり、海賊が寄港地を求めてやってきました。

壱岐松浦党の海賊の頭目に、
阿只抜都(あきばつ)という若者がいました。
槍の名手で、大変な美男だったといわれています。
1380年、阿只抜都は、500隻の船を率いて、朝鮮半島沿岸を襲い、
さらに、半島内部の南原山城(現在の全羅北道南原市)まで、
攻め込みました。
高麗の武将・李成桂が迎えうち、阿只抜都の500隻の船を焼き、
阿只抜都は、李成桂の部下・豆蘭という武将に射殺されました。
総大将と船を失った倭寇軍は、怒り狂って暴徒化し、
近郊の川は、戦死者や住民の血で一週間も赤く染まったといいます。
結局、倭寇軍は、討伐されて四散しましたが、
倭寇の神風突撃のような狂乱の理由は、強烈な怨恨でした。

元寇において、元軍の先導をしたのは高麗軍でした。
壱岐には、100年前に高麗軍に虐殺された島民の無念が、
生き残った人びとに、恨みとして伝承されていたのです。
倭寇の活動は、その復讐であり、かれらは競って朝鮮半島を荒らし、
略奪し、火をつけ、住民を殺して回ったのです。

倭寇の襲来などがきっかけになり、高麗は力を失って滅亡し、
倭寇討伐で名を挙げた李成桂が、
あらたな王朝を建国しました(李氏朝鮮)。

王朝交代ののち、倭寇はあらたな展開をみせます。
前期の倭寇が日本人だったのに対して、
時代が下がると、中国人倭寇がほとんどを占めることになります。
かれらの大きな目的はビジネスでした。

現在の安徽省出身の、王直という中国人倭寇は、
五島列島や平戸を本拠地として、密貿易をおこなうとともに、
海賊行為もおこなった、中国人倭寇頭目でした。
王直は、ポルトガル人を乗船させて日本に向かう途中、
台風に遭って種子島に漂着しました。
王直は、日本に鉄砲をセールスに来たポルトガル人の通訳となり、
自身は、鉄砲に欠かせない硝石を、日本に売り込みました。
その6年後には、
王直は、フランシスコ・ザビエルを鹿児島に運んでいます。
王直は、祖国の明に対して、
自らがおこなった、海賊行為に関して恩赦を願い出ますが、
捕らえられて処刑されました。

現代中国では、王直の評価は分かれています。
貿易商人としての高い評価と、
倭寇頭目であり、日本と通じた売国奴であるという、
両極端の評価にわかれるそうです。
2000年に、長崎県五島列島の日本人が、
王直の碑を、出身地である安徽省の拓林村に建立したところ、
中国人を蔑視する行為だというので、
中国の大学教員によって、墓碑銘が削り取られる事件が起こりました。


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