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平賀源内という男

よしをです。
平賀源内は、讃岐国高松藩藩士である白石家の三男に生まれました。
源内は、早くも11歳のときに、
徳利を置くと、掛け軸の天神さまの顔が赤くなる仕掛けを考案し、
13歳からは、藩医の元で医学を学びました。
子どもの教育に理解のある親の後押しがあったのでしょう。

21歳で父が亡くなると家督を継ぎ、やがて長崎に留学すると、
妹に婿養子を迎えて家督を譲り、大阪や京で遊学しました。
27歳のときには、高松藩の要請で、方位磁石を製作しています。

30歳になると江戸にのぼり、万歩計を製作し、鉱山採掘を学ぶなど、
源内の知的好奇心には、際限がないように思います。
薬草の発見や石綿アスベスト)の発見のほかに、
動植鉱物を収録した図鑑を刊行して好評を博したこともあり、
幕府の老中、田沼意次にも、源内の異能の噂が伝わりました。

源内は、高松藩から扶持をもらう、高松藩士という身分でしたが、
息苦しさから脱藩し、「天竺浪人」と名乗ります。
オランダ製の寒暖計をヒントに、気温計を製造し、戯作や歌を残し、
48歳のときに、有名なエレキテルを完成しました。

源内は品行優れず、大層酒癖が悪かったといい、
大名屋敷の修理を依頼された際、源内は泥酔状態で、
棟梁が修理計画書を盗んだとして絡み、刺殺してしまいました。
源内は、小伝馬町の牢に投獄されると、
破傷風を発症して、あっさり獄死してしまいました。
52歳でした。
親交があった杉田玄白が、葬儀を申し出ましたが、許可が下りず、
罪人につき、無縁仏として葬られました。

源内は男色家で、歌舞伎役者を愛しました。
土用のウナギの風習のほか、正月の初もうでの縁起物「破魔矢」も、
源内のアイデアだといわれ、陶器(源内焼)を考案しています。

発明の分野に留まらず、
ビジネスや文化人の側面でも、いかんなく才能を発揮した源内は、
自分の天才が正当に評価されないという不満を抱いていました。
源内の心中には、
認められたいという強烈な自意識があったのでしょう。
おそらくは、その不満が、源内をアルコールに溺れさせ、
最後には、悲劇的な末路を招くことになるのですが、
わたしには、それが悲運ではなく、
組織でうまく生きられない天才肌のサラリーマンを見ているようで、
なぜだか、滑稽にすら思えるのです。
有り余る才能をもちながら、かれには、徳が備わっていなかったのです。


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