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家康に仕えた二人の妖怪

よしをです。
徳川家康は、
三河以来の旧臣を大事にし、外様を冷遇したイメージがありますが、
かれの人事起用には、独特の感覚があります。
やはり、天下を獲る人間には、常人とは異なる感覚があるのでしょう。
家康を陰で支えた、二人の妖怪が知られています。

大久保長安は、祖父の時代から武田氏に仕え、
武田氏滅亡のあとは、徳川家康に仕えました。
大久保氏は元来、猿楽の出身でしたが、
長安は、経済や経営の才能を認められて起用され、
鉱山開発や経理の分野に、その能力を発揮しました。

家康に仕えると、堤防復旧や新田開発、金山の採掘などに尽力し、
佐渡奉行、所務奉行(のちの勘定奉行)と年寄(のちの老中)、
伊豆奉行を歴任しました。
長安は、全国の金銀山の統括や、
関東圏の交通網の整備などのインフラを、一手に掌握していたのです。
最盛期の長安の権勢は強大であり、
その所領は、公表されている八王子8000石をはるかに超え、
実質的には、幕府直轄領150万石を掌握していました。

長安は、無数の女好きであり、80人もの愛人を抱え、
豪奢な生活を送っていました。
また、有力大名と親戚関係を結ぶなど、不穏な政治活動をしており、
伊達政宗の幕府転覆計画に加担していたという噂が、
当時から囁かれていたといいます。
まさに妖怪です。

しかし、晩年になると、長安は、家康の不興を買ってしまいました。
あまりにも、調子に乗りすぎたのでしょう。
長安死後すぐに、莫大な不正蓄財が明らかになって、
かれの7人の息子は、全員粛清されてしまいました。

もうひとりの妖怪は、本多正信です。
正信は、家康が抱える鷹匠のひとりでしたが、
三河一向一揆に加担して三河を離れ、松永久秀に仕えたあと、
10年以上も消息不明となり、
ひょっこりと家康の前に現れて復職を果たし、
あらためて、その才能を見いだされて、軍師として働きました。

正信は、さまざまな陰謀を家康に提案しました。
石田三成を孤立させるために、加藤清正らを扇動し、
関ケ原の戦いを、裏面で演出しました。
天下統一のための最後の一手は、豊臣秀頼を排除することでした。
正信は奇策を講じ、
秀頼が再興した、方広寺の鐘の銘にあった、「国家」「安康」の文字は、
「家」と「康」を分断する徳川への呪いが込められていると、因縁をつけ、
豊臣秀頼を、大坂の陣へと追い詰めるきっかけをつくったことでも、
知られています。

本多正信は、嫡男の正純に家督を譲って、79歳の天寿を全うしました。
正信の領地は、相模玉縄の2万2千石に過ぎませんでした。
かれは、戦場での働きを認められたわけではなく、
武士が嫌う、汚い陰謀の手柄を評価された男です。
それゆえ、諸将からの恨みを買うことを恐れていました。

それゆえ、正信は生前、嫡子の正純に、
「自分の死後は加領を賜るだろうが、3万石以上の加増は断るのだ」、
と言い残しています。
正純は、父の教えに反して、宇都宮15万5000石を得ましたが、
案の定、諸将の恨みを買って、改易されてしまいました。

大久保長安本多正信は、不仲だったといわれています。
長安の存命のうちは、
正信は、その絶対的な権勢を恐れて、おとなしくしていましたが、
その死後、正信の讒言により、
長安一族は粛清されたという説が有力です。

現代社会に置き換えれば、
こんな訳あり重役たちを率いて、組織を束ねていた徳川家康は、
大した経営者だったといえるかもしれません。


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