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英雄をみる視点

よしをです。
鄭芝龍は、福建出身の海賊集団の首領でした。
日本の長崎・平戸に滞在中に、日本人女性の田川氏と結ばれ、
生まれたのが、鄭成功です。

成功は秀才ぶりを発揮し、科挙に合格して、泉州府に仕官します。
1644年に明が滅亡すると、
皇帝一族が、福建で独立勢力を保っていた芝龍を頼って逃げ延び、
鄭芝龍・成功親子は、唐王を隆武帝として擁立しました。

成功は隆武帝から、明王朝の姓(朱氏)を賜り、
国姓爺(こくせんや)と呼ばれるようになりました。
成功は、華南一帯の明の残党を結集して、
「反清復明運動」を起こします。
武帝が清に捕縛され、父の芝龍も拘禁されてしまいましたが、
成功は、なおも、厦門(アモイ)を拠点にして復明運動を継続します。
かれは、徳川幕府(当時は三代目家光)にも援軍を要請しましたが、
明王朝復活の可能性はないと判断した幕府から拒否されています。

成功は、矛先を変え、
オランダが実効支配していた台湾に転戦し、
台湾を開放したのち、39歳で病死しました。
成功の子の鄭経が、明王朝復活の意思を継ぎましたが、
孫の代になって、内紛が起こり、
名君の呼び名の高い、清の康熙帝に征服されて、
鄭一族の台湾支配は、三代で終わりを迎えました。

台湾では、鄭成功は、延平郡王とも呼ばれています。
また、かれの死後、開台聖王とも称され、神格化されています。
台湾の多くの都市に、
「延平路」、「成功路」といった通りの名前があるほか、
いたるところで、「延平」、「成功」、「国姓」の文字を目にします。
台北には、成功記念公園や、延平郡王祠、開台聖王廟、鄭氏廟という、
鄭成功と、その一族を祀る廟があります。

一方、大陸側では、大悪党の扱いをされていると思いきや、
鄭成功は、オランダ勢力を駆逐した漢民族の英雄とされています。
成功が台湾に拠点を移す前には、福建省を本拠地としていました。
つまり、大陸側から進出して台湾を開放した、かれの業績は、
現代の、中共の台湾政策にも合致するというわけなのです。

もうひとつ、大陸側と台湾側の評価の違いを現しているのは、
かれの銅像です。
台湾の銅像は、すべてが「文人姿」であり、
大陸側は、甲冑を着込んで武器を手に取った厳めしい姿をしています。
もともと鄭成功科挙に合格した文官でしたが、
明滅亡の危機にあって、衣を脱ぎ、甲冑姿となって戦いました。
台湾では、国を治めるために文人姿に戻った成功の姿を銅像にし、
大陸側では、台湾を攻める成功の姿を、銅像にしたというわけなのです。
台湾と中共は、台湾を開放したという歴史的事実を、
まったく逆の方向からアプローチして評価しています。

日本が大陸側と台湾のいずれと友好を保つべきかについても、
おのずとわかりそうなものです。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。