容姿
よしをです。
陳平は、秦末に現在の河南省開封市蘭考県に生まれました。
決して裕福ではない、農家の次男でしたが、
兄の陳伯のもとで、勉学に励んでいました。
陳平は、並外れて容姿端麗でした。
かれを特別扱いすることに不平をもらした妻を離縁するほど、
兄は陳平の将来を買っていました。
陳平には、若い頃から野心がありました。
金持ちの未亡人の張氏にアプローチし、嫁に迎え入れると、
張氏の実家の財力をたよりに、有力者と交流し、部下を集めました。
陳勝呉広の乱が起き、魏咎が呼応し、魏王を名乗って独立すると、
陳平は、魏王のもとに、手下を率いて参戦します。
しかし、魏王は無能な男で、陳平の献策をことごとく無視したため、
陳平は見切って逃亡し、項羽軍に合流しました。
陳平は、項羽から離反した殷王を降伏させるという功を立てますが、
殷王が、ほどなく劉邦に寝返ったことから、項羽の怒りを買い、
またしても項羽陣営から逃亡しました。
陳平は、旧友の魏無知の紹介で、劉邦に面会しました。
次々と主を換え、節操のない男だと思われるのではないかと、
内心危惧していましたが、あっさりと採用されます。
劉邦は、陳平の容姿から、ただならぬ何かを感じ取ったのでしょう。
陳平は、項羽軍を弱体化させるための秘策があるとして、
劉邦に大金を求め、
劉邦も、秘策の内容も聞かず、求めのまま与えました。
陳平は、この金を謀略に使いました。
かれは、項羽のもとで働いた経験から、旧主君の弱点を知っていました。
猜疑心の強い項羽の性格を利用して、スパイを放ち、
軍師の范増をはじめ、鐘離昧、龍且、周殷の3人の将軍が、
謀反するという噂を立てて、かれら重臣を項羽から遠ざけたのです。
劉邦が項羽を倒して天下を統一し、
漢帝国を創立すると、功臣の粛清がはじまりました。
劉邦の存命中は、陳平はできるだけ目立たぬように振る舞いました。
劉邦の没後、劉邦の未亡人呂雉の一族が政権を握りましたが、
陳平は当初、呂雉に目をつけられていました。
呂雉の妹は、劉邦の親衛隊長の樊繪の妻で、
樊繪が謀反の疑いで粛清された際、逮捕したのが陳平だったのです。
陳平は、呂雉の疑いから逃れるため、無能のふりをして安心させ、
呂氏一族への賄賂を欠かせませんでした。
賄賂の効果もあり、陳平は、丞相に任命されましたが、
その裏で、着々と力を溜め、反撃のチャンスを窺いました。
呂雉が亡くなると、陳平は古老の周勃と手を組んで、呂一族を粛清し、
政権は正常な状態を取り戻しました。
陳平はあまりにも謀略が多く、味方にさえ警戒される存在でした。
当人もまた、それを自覚しており、
「わたしの悪行の報いで、子孫は死に絶えるだろう」と予言し、
その通りに、かれの子孫は失政によって粛清され、断絶しました。
かれには、並外れた謀略の才能があったのですが、
兄の陳伯や、張氏、魏王、項羽、劉邦は、
陳平の才能を看破していたわけではなく、
かれらが一様に魅せられたのは、陳平の美しい容姿でした。
のちの三国志の時代、魏の曹操が、
求賢令という布令を出して、全国から人材を求めたとき、
「陳平のように兄嫁と姦通し賄賂を取るような男でも、才能次第で取り立てる」
と、陳平を引き合いに出しています。
兄嫁に虐められていたのが、いつしか姦通したことになっていました。
陳平は、それほど悪評高かったのです。
これも美男の宿命なのでしょうか。
ここまでいくと、さすがに羨ましくはないですが、
容姿も才能のうち、というのは、
古代だけではなく、現代社会でも通じるように思います。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。