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決闘あれこれ

よしをです。
赤穂浪士討ち入り、曽我兄弟の仇討、鍵屋の辻の決闘を、
日本の三代決闘というそうです。

元禄7年(1694年)2月に、
高田馬場で、侍同士の決闘がおこなわれました。
争ったのは、いずれも四国の西条藩藩士である、
菅野六郎左衛門と、村上庄左衛門の二人です。

二人は、江戸詰めの同僚でしたが、言い争いになりました。
一旦は、ほかの藩士に止められて、仲直りの杯を交わしましたが、
酒席でふたたび口論になり、
決闘をおこなって、互いの成否を問うことになりました。
当時の決闘は、互いに助太刀を頼むことになっているのですが、
村上が6~7人の助太刀を得たのに対して、
菅野は2人しか味方が集まりませんでした。
菅野は、同じ道場に通っていた中山安兵衛に、事情を話し、
妻子のことを託すと、安兵衛は、助太刀を申し出ました。

旧暦2月11日、決闘の場所である高田馬場で二人の勢が相対峙し、
切り合いが始まりました。
村上が菅野の眉間を斬り、菅野は村上の腕に切りつけますが、
村上は、なおも菅野の頭部を斬りました。
そこに、菅野の助っ人の中山安兵衛が戦いに加わり、
村上側の数名を斬ったあと、村上を斬り伏せました。
この決闘により、村上、菅野ともに、その場で絶命してしまいました。

当時の瓦版は、「中山安兵衛が18人を切り伏せた」、などと喧伝し、
その評判から、赤穂藩の堀部家が、
安兵衛を養子としてヘッドハンティングしました。
中山安兵衛は堀部安兵衛と名を変え、
恩に報いるため、赤穂浪士の吉良邸討ち入りにも加わり、
本懐を遂げて、切腹しています。
江戸時代を通じて、いくつもの仇討事件が発生していますが、
二度も仇討に加わったのは、堀部(中山)安兵衛だけでしょう。

当然ながら、決闘は日本の専売特許ではなく、
中世のヨーロッパでも、さかんにおこなわれています。
注目するのは、西欧において、
決闘は、法的に認められた制度だったということです。
決闘裁判は、証人や証拠が不足する告訴事件を解決するために、
原告と被告が決闘をおこなって決着するという、
ゲルマン法の制度です。
決闘で勝利したほうが無罪を勝ち取り、敗れると有罪になります。

決闘は、双方が道具を使って殴り合い、
いずかが死ぬか、降参すると決着します。
当事者が男と女の場合は、女側が代理人を指名することもできましたが、
本人が望む場合には、男にハンデをつけて直接戦いました。
ある決闘裁判では、
男はへそまで土中に埋められ、女は布にくるんだ重さ1ポンドの石を用い、
男は棍棒を使って、殴り合う形式でおこなわれたそうです。

日本の仇討は、中世からの慣習であり、
江戸時代になると、喧嘩両成敗を補完する方法として、
血縁関係がある場合に限って、合法とされていました。
一方で、中世ヨーロッパには、
「神は正しい者に勝利を与える」、という思想があり、
自力救済の精神が根強かったことが、
決闘裁判が正当化された理由だといわれています。

こんなところにも、日本人と西欧人のメンタリティの差異を感じ、
興味深いものです。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。