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むかしの落書き

よしをです。
神社仏閣など、文化財への落書きは、本当に不快なものです。
最近では、外国語の落書きも多いようですが、
これは、日本に限らず、世界的な現象のようです。

法隆寺が建立された時代にも、落書きが残されています。
もっとも、これは参拝者が残したものではなく、
当時の大工が、外から見えないような場所に、落書きしたものです。
人間の顔や人物像の絵が多いですが、
男根や性行為などの下品な絵もあります。

法隆寺五重塔には、万葉仮名で書かれた、
「難波津」という、古い歌謡の一部が残されています。
この歌謡は、8世紀当時、文字の習い初めによく書かれたもので、
藤原京平城京の遺跡からも、
木簡に書かれているものが発見されているほか、
徳島県の観音寺遺跡から出土した木簡にも、
「難波津」が書かれていました。

「難波津」の写生は、役人を目指していた人たちが、
文字の手習いをしていた痕跡であるといわれていますが、
学問からは無縁の職業であると思われる大工のような庶民層や、
都から遠く離れた地方にまで、
識字層が広がっていたというのは驚きです。

12世紀前半に建立された、ヒンズー教寺院アンコール・ワットには、
寺院の入り口近くの回廊の柱に、
この地を訪れた、江戸時代の日本の武士の落書が残されています。

寛永九年正月初めてここに来る
生国は日本
肥州の住人 藤原朝臣森本右近太夫一房
御堂を志し数千里の海上を渡り
一念を念じ世々娑婆浮世の思いを清めるために
ここに仏四体を奉るものなり

森本一房は、肥後の加藤清正に仕えていましたが、
清正の死後、二代目当主・加藤光広の代になると、
領内政治が混乱したため、
加藤家を辞して、国際的な貿易港を有する平戸藩に仕えました。
カンボジア南天竺とよばれ、
仏教の聖地である、祇園精舎があると信じられていました。
熱心な仏教徒であった一房は、
父の菩提を弔うために、朱印船に乗って南シナ海を渡り、
1632年にアンコール・ワットを訪れ、4体の仏像を奉納しました。
やっとたどり着いた聖地で、
一房は、万感の思いを込めて、柱に墨書したのでしょう。

大変残念なことに、
この落書は、ポルポト政権時代に、青色のペンキで塗りつぶされました。
まったくもって、野暮なことをするものです。
そのため、現在では、ほとんど読めなくなってしまったそうですが、
よく見ると、墨書されていることがわかるといいます。


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