鰍沢
よしをです。
鎌倉時代、地震や飢餓、疫病が相次ぎ、
日蓮は法華経の教えによって、人びとを救済しようと考えました。
法華経に帰依すれば、末法の世から救われるとして、
幕府に対して、3度にわたって諫言しましたが、
幕府は一切耳を傾けないばかりか、反逆行為だとして、
日蓮に、伊豆、佐渡への2度の流罪が命じられました。
のちに、流罪赦免となると、熱心な日蓮信者であった南部実長の招きで、
日蓮は、現在の山梨県巨摩郡の身延山に入山し、
ここで晩年の9年間を過ごしました。
身延山参りの江戸の旅人が、法輪石霊場から鰍沢の船着き場に行く途中、
激しい雪で道に迷い、山中の一軒家に一宿を求めました。
その家に住んでいたのは、
このような場所には不釣り合いの、美しい女でした。
名をお熊といい、喉元には刃物で突いたような痛々しい傷がありました。
「どこか見覚えが」と、旅人は首をひねり、
「見間違えなら申し訳ありませんが、あなたは、吉原の熊造丸屋の月の兎花魁じゃございませんか」と尋ねると、お熊は驚きました。
お熊(月の兎花魁)は、かつて心中をしそこない、
男と一緒に吉原から逃げ、ここで隠れて生活していると打ち明けました。
同情した旅人は、心づけを2両渡します。
お熊のすすめる卵酒を一口飲んで、酔いが回ってうとうとし始めると、
お熊が外出したところへ、亭主の熊の膏薬売りが戻り、
残った卵酒を全部飲み干すと、にわかに苦しみ出しました。
お熊が帰宅すると、亭主はすでに虫の息でした。
その卵酒は、旅人から金を盗むため、
お熊が痺れ薬を仕込んだものだったのです。
これを聞いた旅人は、痺れる体で雪の中に逃げ出し、
小室山で授かった毒消しの護符を飲み込むと、痺れが少し治まりました。
旅人が逃げたことを知ると、お熊は銃を取り出し、
亭主の敵とばかりに、追いかけてきます。
懸命に逃げる旅人が行き着いたのは、そそり立つ絶壁です。
眼下には鰍沢の激流が見えます。
旅人は意を決し、崖下に見つけたいかだをめがけて身を踊らせました。
落ちたはずみで、いかだはバラバラになりますが、
旅人は、一本の材木に取りすがって、急流を流れていきます。
崖の上からお熊が鉄砲を放ち、
旅人が、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えると、
弾は旅人の身体をかすめて傍らの岩に「カチン」と跳ねました。
「この大難を逃れたのは祖師のご利益。一本のお材木(お題目)で助かった」。
廓抜けをした女郎は、殴打や絶食、冬であれば、水を浴びせる水責め、
夏であれば、丸裸にされ蚊に食わせる蚊責めのようなリンチが待っています。
落語「鰍沢」は、この事件の後日談を語っていませんが、
江戸に戻った旅人は、自らを守るために、
熊造丸屋にお熊の居所を通報するべきでしょう。
居所が判明すれば、捕縛されてしまいますから、
お熊とすれば、江戸まで追いかけて、口封じのために旅人を殺すか、
あるいは一軒家を捨てて逃げるか、いずれかを選択しなければなりません。
聞き手に、そのような想像を託しながら、
「お題目のおかげ」で終わらせるところに、この噺の凄みがあります。
さすがは、名人・圓朝です。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。