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敵将の首

よしをです。
天正2年(1574年)、宿敵浅井・朝倉連合軍を亡ぼした織田信長は、
晴れやかな気分で、居城の岐阜で新年を迎えました。
新年の挨拶のため、畿内や近隣の大名や武将が岐阜城に集まりました。

盛大な宴会が終わり、他国衆が退出したあと、
信長と幕閣や馬廻衆だけになったところで、
周囲が驚く酒の肴が持ち込まれました。
それは、前年に討ち取った浅井久政・長政父子と朝倉義景の髑髏でした。
かれらの頭骨は、薄濃(はくだみ)の処理がされていました。

信長公記には、このように記録されています。

前年の戦い(浅井・朝倉連合軍との)の話で、大いに盛り上がり、
信長公は、順風満帆に天下統一事業がすすんでいる状況に大変満足し、
上機嫌だった。
3人の髑髏が余興として出され、それを見た家臣たちは、
謡ったり踊ったりして、「めでたい、めでたい」と喜んだ。

どこで話が変わってしまったものか、
のちに、髑髏杯に酒を注ぎ、一同が回し飲みしたといった
創作がされましたが、そのような悪趣味な所業はおこなわれず、
酒宴の席で披露されたのが実際のところです。

薄濃とは、漆で塗り固め、そのうえに金泥で彩色されたものです。
この風習は、古代中国にも存在していたことは確かで、
史記にも、
趙の襄子が、敵対していた智白を薄濃にしたという記述があります。
古代中国では、戦いで討ち取った敵に敬意を示して、
その勇気を自分の力として取り込むという呪術的な意味もあったようです。

日本にも、比叡山には古くから、薄濃を施す職人がいたといいます。
修行中に亡くなった高僧の徳を忍ぶためにおこなわれたようで、
その後、真言立川流にも薄濃の風習が伝わったといわれています。
立川流では、髑髏を7年間安置すれば、8年目に魂が蘇り、
これを持つ者は神通力を得るという秘儀が伝えられていたそうです。

江戸時代初期に記された「おあむ物語」では、
関ケ原の戦いで、石田三成に仕えた武将の娘(おあむ)が、
当時の混乱下での思い出を語っています。
美濃大垣城で、城に詰めている女衆のひとりであった、おあむが、
自分が討ち取った首の値打ちをあげたいという、武将の要望を聞いて、
首に化粧や「お歯黒」を施したと語っています。

味方が獲った首を天守へ集めて、札をつけておいて、
鉄漿(おはぐろ)をつけたりした。
首は怖いものではなく、血の臭いがする中で寝たこともあった。

のちに、おあむは、幾多の困難を経て、親類のいる土佐に逃がれ、
土佐藩士の妻となり、80余歳の天寿を全うしました。
老いたおあむが、子どもたちにねだられるまま、語り聞かせたのが、
「おあむ物語」です。

「おあむ物語」は、また別の機会にでもご紹介したいと思います。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。