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児童教育の歴史

よしをです。
己の不勉強により、はじめて知ったのですが、
江戸時代にあった寺子屋というのは、全国的な呼び名ではなく、
おもに上方での呼び名で、
江戸では、「筆学書」もしくは「手習指南所」などと呼ばれていたそうです。

これらの民間の児童教育所の普及により、
江戸時代を通じて、とくに都市部においては、
わが国の識字率は高いレベルにあったとされ、
のちに、文明開化以後、西洋文明に追いつくための、
日本人の知的な底力の礎になったことは間違いありません。
現在に生きるわれわれも、先人に感謝しなければならないと思います。

江戸以前にも、児童教育はおこなわれていました。
平安時代から鎌倉時代の教育は、貴族や上流武士階級のもので、
教養人や高僧が、支配層の子弟に教育をおこなっていましたが、
室町時代になると、一般庶民の教育をおこなう寺院があらわれました。

15世紀半ばに記された「長谷寺霊験記」には、
摂津国住吉在住の藤五という人が、息子を和泉国の巻尾寺に送り、
読み書きを学ばせたという記録があります。
父親は、学問を学ばせたあと、呼び戻して家業を継がせるつもりでしたが、
意に反して、息子は出家してしまったそうです。

1443年に朝鮮通信使として来日した申叔舟の記録には、
「日本人は男女身分に限らず全員が字の読み書きをする」とあります。
また、16世紀に書かれた興福寺多門院の英俊という僧の日記には、
近在の子どもたちを集めて、読み書きを習わしていたとあり、
フランシスコ・ザビエルの書簡にも、
仏教寺院では、僧侶は男児に、尼僧は女児に、
それぞれ幼児教育をおこなっていたとあります。
近くに教育を施す寺院がない地域では、
旅の僧に読み書きを教わることもあったようで、
狂言の「腹立てず」という演目に、その様子が描かれています。

すでに、室町時代の庶民の間にも、
人として一人前になるためには、基礎教育が必要であると、
考えられていたことがうかがわれます。
教育の普及において、経済的な要因は大きいですが、
もうひとつの大きな理由は、日本の為政者たちが、
庶民の教育に対して寛容だったことにあると考えています。

海外の独裁社会においては、おおむね庶民の教育には消極的で、
それどころか、できる限り人民は愚民化しておいたほうが、
統治するのに都合がいいと考える傾向が強いのですが、
幸いにも、日本では、室町時代以降、
為政者は、庶民が一定の教育を受けることにメリットを感じていました。
教育が、国を豊かにするために必要だと考えられていたのでしょう、

寺院は教育機関だけでなく、
社会全体にとっても、大きな役割を果たしていました。
室町時代中期からはじまった一向一揆の苦い経験によって、
為政者は、教養のない民衆が過激な宗教とつながることの危険を知り、
民衆を正しい道へ導く教育が必要であることを、痛感したことでしょう。
そして、一向宗日蓮宗などのラディカルな仏教の力を削ぐためにも、
権力との協調に舵を切った穏健な仏教を、
優遇したのではないかと想像しています。
多くの穏健な仏教は、本来の目的である民衆救済にシフトし、
民衆の教育に、ますます力を入れるようになったのだと思います。


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