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不平等条約と無法

よしをです。
1854年に、マシュー・ペリーが率いる黒船が来航し、
日米和親条約によって、日本は、長い鎖国時代を経て開国しました。
その後、伊豆半島の下田に着任した、タウンゼント・ハリスが、
アメリカとの通商条約の締結を要求し、
1858年に、14代将軍徳川家茂の名で、
日米修好通商条約が締結されました。

日米修好通商条約により、
下田と函館に加えて、あらたに4つの港を開港し、
外国人居留地をおくことが、決められました。

この通商条約が、不平等条約といわれるのは、
開港や居留地の設置のほかに、
領事裁判権の承認による、実質的な治外法権が容認され、
アメリカからの一方的な決定により、関税が定められたからです。
その不平等な内容から、評判が悪いのは当然のことですが、
調印した江戸幕府について、
外交権を行使することが越権行為である旨の批判や、
条約の正統性そのものを、疑問視する声すらありました。

アメリカに続き、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの各国とも、
同様の通商条約が締結されました。
これらの条約の最重要なポイントは、その内容はともかくとして、
アメリカや国際社会が、
はじめて、日本を国家として認めたことを示したことにあります。

江戸幕府が締結した条約は、
以後、明治政府にも、正統な条約として引き継がれました。
明治政府は賢明でした。
なぜなら、国際条約がどのようなものであるか理解していたからです。
国家が国家として認められるかどうかは、相対的なものであり、
その根幹となるのが、国家間の条約なのです。

横浜から神戸に向かっていた、イギリス商船ノルマントン号が、
和歌山沖で、暴風雨に遭って沈没しました。
イギリス人とドイツ人の乗員乗客は助かりましたが、
日本人乗客25人は、イギリス人船長が意図的に救命ボートに乗せず、
すべて、溺死してしまいました。
明治政府は、イギリスに抗議し、
イギリスの領事裁判に、船長らを殺人罪で起訴しますが、
無念にも無罪が宣告されました。

この事件をきっかけにして、
明治政府は、不平等条約を締結した欧米列強に対して、
本格的に、条約改正を求めていきました。
政府の代表として、いわゆる「岩倉使節団」が欧米に出向き、
改正を求めて失敗しますが、
1889年に成立した、大日本帝国憲法によって、
日本はようやく、近代国家として世界に認められはじめました。

日本の国力の向上とともに、政府の粘り強い外交交渉によって、
不平等条約改正の動きが、海外でも注目されるようになり、
日露戦争後のポーツマス条約で、国際的地位が高まり、
日米修好通商条約をはじめとする、各国との不平等条約は、
50年以上の年月をかけて、ようやく改正されたのです。

中華人民共和国は、第二次大戦後、
国際社会から主権国家として容認されるまで、かなり時間を要しましたが、
最初に、中国を治める正統な国家として認めたのはイギリスでした。
毛沢東は、清朝政権が南京条約で割譲した香港について、
引き続き、イギリス領であることを容認してきたという事情があったため、
イギリスは、中華人民共和国を、
国際条約を順守する国家であるとして、真っ先に承認したのです。

21世紀の時代にあって、
国際条約を政権交代を理由に無力化できるとする国が、
わが国と海峡を挟んだ向かい側に存在しています。

条約を無視するこの行為は、いうならば、かの国自らが、
正当な国家であるという評価を失う可能性すらある暴挙ですが、
かれらは、問題の深刻さについて、
指導者から国民まで、ことごとく理解していません。
この事実は、かの国の病が重症であり、救いがたいことを示しています。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。