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最後の流刑人

よしをです。
時代劇で、重罪人が、
「遠島(おんとう)申し付ける」と、奉行から宣言される場面がありますが、
江戸時代、流刑(島流し)は、死刑に次ぐ重罪でした。
島流し」の言葉が示す通り、江戸では犯罪者を孤島に送るのですが、
たとえば、加賀前田藩では、合掌造りで知られる五箇山に送られました。
現在でも、五箇山集落には、
流刑小屋という重罪犯を収容する座敷牢が残っています。

江戸で流罪を命じられた罪人は、
ひとまず、日本橋小伝馬町の留置所に送られます。
そこで、出発まで4か月間ほど待機させられ、
出航の前日になると、本人に行き先が伝えられます。
江戸の罪人が流されるのは、伊豆大島、三宅島、八丈島などですが、
八丈島は重罪人、政治犯は新島など、
犯罪の種類によって、流刑先は大体決まっていたようです。
どの場合でも、一部の例外を除いて、基本的に皆、終身刑でした。

島で罪をおかしたり、流刑先から脱走すれば死罪ですが、
基本的に流刑後は、
幕府は罪人がどうなろうと関知せず、保護もしない方針でした。
流刑地に到着すると、村の名主や寺社の監視におかれ、
農作業の手伝いをしたり、学問のある者は役人の手伝いをし、
大工など手に職のある者は、それを生業にして自給自足生活をしました。
流刑者は、さほど差別されることもなく、島民のひとりとして留まり、
従来の島民との間には、格別の差もなかったといわれています。
ただし、もともと耕作地の乏しい環境ですから、生活は常に厳しく、
毎日が飢餓との戦いだったといわれています。

新島に流された罪人は、
江戸期から明治初期を通じて、1333人いたという記録があります。

相馬主計は、常陸国笠間藩士で、20歳のときに新選組隊士となり、
土方歳三五稜郭で銃弾に斃れたあと、新選組最後の隊長になりました。
榎本武揚が投降し、相馬も捕縛されて、
伊東甲子太郎暗殺の嫌疑により、新島に流罪となりました。
相馬は現地で寺子屋を開いて近隣の子どもたちの教育にあたり、
島民に慕われたといわれています。
島民の娘マツと結婚し、
このまま新島で一生を終える覚悟だったと思われますが、
明治5年に流刑制度が廃止されたため、赦免されて東京に戻りました。

相馬は、鳥取県知事に推挙されるなど、
政治の舞台に立つチャンスもありましたが、
かつての新選組隊士の生活が困窮していることを憂いて、
「自分だけ、楽な道は選ばない」として、辞退しています。
翌明治6年、相馬主計は、自宅で割腹自殺を遂げましたが、
理由は不明とされています。

大和国十津川藩士の上平主税は、若くして医術を学び、国学を修めました。
明治3年、新政府参議横井小南暗殺に関わったとして、新島に流されました。
島で天然痘が大流行して多くの死者が出ると、
上平は惨状を見かねて「種痘直訴状」を足柄県庁に提出し、
救済に尽力しました。
島民に産婆術を教授し、寺子屋で子どもの教育にも貢献しています。
相馬主計と同様、流刑制度の廃止によって、赦免されますが、
上平は、しばらく島に留まり、島民のために尽くしました。
その後、故郷の奈良に戻って神官となり、68歳で死去しました。
上平の孫の上平喜晴も新島にわたり、島民の医療に尽くしたとあります。

明治3年から5年にかけて、新島には、
相馬主計と上平主税の2人が、流刑人として一緒にいました。
2人は面識があったのでしょうか。
ときには酒を酌み交わすこともあったのではないかと、想像を巡らせます。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。