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サンクトペテルブルクを訪れてみたい

よしをです。
1703年、ピョートル大帝がモスクワからの遷都を思い立ち、
あたらしい都の建設を開始しました。

サンクトペテルブルクは、
65本の川と100あまりの島を500の橋で結んでいる水の都で、
「北のベネチア」とも呼ばれる美しい町です。
ドストエフスキィの小説に登場する、ネヴァ川やネフスキー通りは、
現在も、当時とあまり変わらない姿を残しています。
歴代の皇帝が住んだ冬宮殿をはじめ、
聖イサク大聖堂やカザン聖堂、ハリストス復活大聖堂など、
荘厳なロシア正教寺院が、数多く残っています。

建設当時、このあたりは一面の沼地でした。
ピョートル大帝は、地盤の緩いこの地に、
大量の労働者と資材を投入して、あたらしい帝都をつくりました。
なぜ、この場所が選ばれたのかというと、
ここがネヴァ川の河口にあたり、交通の要衝だったからです。

ピョートル大帝からの歴代の皇帝は、
モスクワではなく、サンクトペテルブルクで過ごしました。
ドストエフスキィの記述によれば、
サンクトペテルブルグは、白夜によって幻想的な夜を演出する夏が、
もっとも美しい季節だが、
町を縦横無尽に流れる川から毎年のように大量発生する、
蚊の被害に悩まされたといいます。

ロシア革命によって帝政が崩壊し、ソビエト支配の時代になると、
サンクトペテルブルクは、レニングラードと名前を変えます。
レーニンの町」という意味です。
第二次大戦では、フィンランドとドイツによって、
900日にわたって包囲される、
レニングラード包囲戦」の舞台になりました。
軍人以外にも、飢餓や砲撃によって、
100万人以上の市民が亡くなるという悲惨な戦いになりましたが、
レニングラードは包囲戦を戦い抜き、陥落しませんでした。

第二次大戦における、ドイツの官民の戦死者は約690万人、
日本の場合は、2発の原爆と沖縄戦なども含めて310万人ですから、
ひとつの都市で、100万人以上の市民が命を落とす市街戦というのが、
いかに壮絶な犠牲であったのか、想像するのも難しいことです。

ターニャ・サビチェワという11歳の少女が、
包囲戦の記録を書き残していました(ターニャの日記)。
包囲戦において、祖母と叔父、母と兄弟姉妹が殺されました。
ターニャ自身は、レニングラードを脱出して避難することができましたが、
すでに時は遅し、飢えと病気のために亡くなってしまいました。

第二次大戦後、レニングラードはいち早く復興して、
以前の美しい町並みを取り戻しました。
いろんな映像で現在の町並みを見ると、
あれほどの深刻な戦災を受けた町であるとは信じられません。
そして1991年のソ連崩壊によって、レニングラードは、
ふたたびサンクトペテルブルク(聖ペトロの町)に名を改めています。

わたしはソビエトも現在のロシア連邦も好きになれませんが、
ロシアの偉大な作家たちの作品群とは青春時代を共にしてきました。
サンクトペテルブルクには、ドストエフスキィが暮らしたアパートも、
そのままの姿で残っているといいます。

いつかサンクトペテルブルクを訪れてみたいものです。
武漢肺炎が収束したあと、
体力的、経済的、時間的な余裕があったら…。


今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。