さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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ビリー・ホリディの時代

 よしをです。

大いなる南部ののどかな風景/飛び出した目と歪んだ口/

マグノリアの香りは甘く新鮮/そこに突然焦げた肉の臭い/

ニューヨークのユダヤ人高校教師のルイス・アランは、

1930年、白人のリンチによって殺害され、

ポプラの木に吊るされた2人の黒人の死体の写真を目にして、

自ら作曲作詞し、「STRANGE FRUIT(奇妙な果実)」と名付け、

当時20歳の黒人女性ジャズ歌手ビリー・ホリディに提供しました。

 

ビリー・ホリディは1915年メリーランド州ボルチモア生まれ、

本名をエリノラ・フェイガン・ゴフレディ・デイといいます。

幼児期に両親から虐待を受けたビリーは、カトリックの養護施設で生活し、

売春宿の女主人のもとで掃除婦として働きました。

やがて母親に引き取られ、母娘ともども売春宿で働くようになりましたが、

ビリーは14歳のとき、矯正施設に送られています。

 

施設を出所したあとに出会ったサックス奏者とともに、

ビリーはニューヨークのハーレムの酒場で、

大好きだったベッシ―・スミスの真似をして歌うようになりました。

そこで、コロムビアレコードの音楽プロデューサーの目に留まり、

本格的に歌手としての活動を開始します。

彼女はデビューを前にして、

娘を認知することもせず、一度も生活を共にしたこともなかった父が、

幼い頃、男のような外見の彼女をからかってビルと呼んでいたことから、

父の姓をつけて、ビリー・ホリディを芸名にしました。

 

ビリーは黒人のカウント・ベイシー楽団のほか、

アーティ・ショー楽団とも共演し、

白人の楽団と仕事をした最初の黒人歌手になりましたが、

人種差別は根強く、各地のショーで罵声を浴びる日々でした。

アーティ・ショー楽団に帯同した際には、ホテルでは表玄関が使えず、

自分だけキッチンのドアから出入りするようにいわれ、

レストランでは白人スタッフとの会食ができないといった差別をうけ、

傷ついたビリーはショーの楽団から降板してしまいました。

 

そんな折にルイス・アランから提供されたのが「奇妙な果実」でした。

人種差別問題を扱う歌詞を理由に、

所属するコロムビアからレコードを出すことができず、

コモドアという小さなレーベルから発売されることになりましたが、

コロムビアをあざ笑うかのように「奇妙な果実」は大ヒットとなり、

ビリーの代表曲になりました。

ビリーがこの曲をライブで披露すると、

観客は一斉に沈黙し、女性客は涙する者も多かったといいます。

「奇妙な果実」は、アメリカ国民のなかに根強くある人種差別について、

問題意識をもって考えさせるきっかけになり、

その後、全米を揺るがす公民権運動へとつながっていきました。

ビリーはミュージシャン仲間の評判もよく、金に困った仲間には援助し、

ジャズミュージシャンとしての成功とともに、

母親をはじめ、彼女を食い物にする取り巻きが増えてきました。

 

後年のビリー・ホリディはトラブルの連続に見舞われました。

ビリーには、芸名のエピソードが語るように、

父親の愛情へのコンプレックスがあったと想像しますが、

男に依存する性質だったようで、何度かの結婚はすべて失敗し、

ヒモのような男との関係を断ち切ることができませんでした。

やがてアルコールとドラッグ中毒から抜け出すことができなくなり、

1959年7月、酒とドラッグで体を蝕まれたビリーは、

44歳の若さで亡くなりました。

 

ビリー・ホリディの歌は強烈な人生経験に由来するものであり、

単に巧みであるという以外に、重苦しいほどのリアリティを与えます。

ビリーと同時代に活躍したエラ・フィッツジェラルドには、

この怖さはありません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。