人種差別の根
よしをです。
奴隷解放の父とよばれるエイブラハム・リンカーンは、
奴隷解放宣言を出して南北戦争を戦い、黒人奴隷を開放しましたが、
人種差別を否定していたわけではありませんでした。
リンカーンはこのような発言をしています。
「わたしは白人と黒人の社会的、政治的平等を実現させようとは考えていない。黒人に投票権を与えたり、陪審員にしたり、公務につかせたり、白人と結婚するのも反対だ。両人種がともに暮らす限り、わたしは白人が上位を占めることを支持している」。
リンカーンは、インディアンに対しても、徹底的な迫害をおこなっています。
合衆国市民(白人)に対して、5年間開拓に従事すれば、
160エーカー(65ha)の土地を無償で与えるというムステッド法を制定し、
狩猟生活をしていたインディアンを強制的に移住させて生活や文化を奪い、
さらに、強制移住によって生活が困窮し、暴動を起こしたダコタ族38名を、
一斉に公開絞首刑するという、理不尽な執行を命じたのです。
処刑会場には多くの人が集まり、ある見物人の手記によれば、
「(絞首刑の)床が落ちると、兵士や市民から歓声があがった」と、
記されています。
イギリスとの貿易摩擦解消でした。
アメリカは、黒人奴隷をつかって安い綿花や農産物を生産し、
西欧に輸出していたため、各国の農業に悪影響を与えていました。
そこで、イギリスの産業を守るため、パーマストン首相は奴隷解放を訴え、
アメリカの貿易競争力を奪おうと考えたのです。
もともと、この内戦の目的は奴隷解放ではなく、
建国以来の地域的対立が原因でした。
北部は産業革命を経て、商工業を中心に発展していたのに対して、
南部は黒人奴隷をつかったプランテーションによる農業地帯でした。
アメリカでは、過去30年にわたって、合衆国憲法の解釈について、
各州が合衆国から離脱できるかどうかが議論されていました。
畢竟、南北戦争とは、離脱派の南部が独立を目指したものであり、
イギリスのパーマストン首相からの圧力に迎合する形で、
不充分な奴隷解放は、のちに禍根を残しました。
奴隷解放ののちも、
黒人は小作人として低賃金で働くことを余儀なくされました。
1964年に公民権法が成立するまで、黒人の社会的地位は低く、
その後、ヒスパニックや東洋人、イスラム系の移民も増えて
問題は複雑化し、
現在でもなお、人種問題はアメリカの深刻な病巣となって残っています。
今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。