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小人閑居して不善を為す

よしをです。

「大學(だいがく)」は儒教経書のひとつで、

曾子がつくったとも、秦漢の儒家の作ともいわれていますが、

作者はわかっていません。

 

南宋以降、「大學」は「中庸」「論語」「孟子」と並び、

儒家四書とされましたが、

「大學」は、「切磋琢磨」「修身」「致知」などの言葉を残し、

その名の通り、大学教育について論じています。

中国でいうところの大学とは、

国家指導者などのエリート層の子息教育のことであって、

天下国家の戦略や人民統治といった課題が、

大学における探求テーマでした。

 

「大學」はリーダーとしての心構えや、組織を円滑に運営する方策など、

現代人にとっても参考になる知恵が凝縮されています。

たとえば「修身」について、このように論じています。

 

国家の統治を目指す者は、単に学問を修めるだけでは足りない。

それに加えて、自己をよく修養し、徳を身につけなければならない。

なぜなら、徳こそが、よい国家統治の条件だからである。

 

「大學」の一篇に、「小人閑居して不善を為す」という言葉があります。

つまらない人間は、暇になると悪事に走るという意味です。

SNS上で、匿名で人を非難する人間や、

報道の自由を盾に政権や行政批判を繰り返したり、

根拠の希薄な情報や当て推量で大衆を煽るコメンテーター、

国民の福祉という大前提を無視して些事を問題化する政治家など、

日常目にするあらゆるものが「小人閑居」を表しているように思え、

歳のせいもあってか、わたしはイライラすることが多くなっています。

 

明時代の学者・王陽明は、「良知」を掲げていました。

「良知」とは「良心」に近い意味合いの言葉ですが、

さらに踏み込んで、

「誰かに教えられなくても、人が生まれつき知っていること」

という性善説に則っています。

人は本能的に、「本来為すべきこと」を知っているというのです。

 

電車に乗って、目の前に大きな荷物をもった老人が立っていれば、

席を譲ったほうがいいと感じるのは、誰かに教わった道徳規範ではなく、

人が本来有している正常な感覚です。

逆に、席を譲るのはなんとなくバツが悪いとか、面倒だと思って、

寝たふりをしてしまうのは、

それが居心地の悪いことだとわかっているからなのです。

 

過剰に他人に期待してはいけないことはわかっているつもりですが、

殺伐とした現代社会においては、

人間の正義に期待したい気分にもなります。

 

「大學」には、「小人閑居して不善を為す」の対語として、

「君子必ずその独りを慎む」があります。

閑居し、独りでいるときに、小人と君子の差が露わになるという意味で、

人間性の本質に対する鋭い洞察が見て取れます。

小人の振る舞いが気になってしかたがない、きょうこの頃。

齢(よわい)60に近くなり、いまだ君子への道筋は見つからず…。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。