さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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ある引退の姿

よしをです。

石川丈山は、本能寺の変の翌年に、

徳川家康に仕える石川信忠の長男に生まれました。

幼い頃から武芸を学び、身長6尺6寸(190センチ)の大身であり、

家康の側近である本多正信が叔父にあたることから、

丈山には生まれながらに、エリートコースが約束されていました。

 

家康の近習となり、大坂夏の陣に参戦しますが、

武功を焦って抜け駆けの軍令違反を犯し、

家康から厳しく叱責されると、浪人になり、

京都の妙心寺で隠棲生活に入りました。

当時、丈山は31歳でした。

この早い決断は、おそらく丈山自身が、武士の世界や、

立身出世には不向きであると確信したからなのでしょう。

 

出家した丈山は、林羅山をはじめ、藤原惺窩、狩野探幽本阿弥光悦など、

多くの文化人と交流し、かれの文武の評判が広まりました。

丈山は、仕官の誘いがあっても、なかなか応じませんでしたが、

病気の母を養うために、やむなく紀伊の浅野家に仕官しました。

 

病身の母を看取ると、丈山は浅野家を去り、

京都に戻って、一乗寺に「詩仙堂」を造営して隠棲生活に入りました。

このとき、丈山は60歳でした。

現代でいえば、まさにサラリーマンの引退の年齢です。

丈山は詩仙堂で庭を建造するかたわら、漢詩づくりに専念し、

林羅山とともに、李白杜甫、白楽天ら、中国歴代の詩人を選んで、

三十六詩仙とし、親交のあった狩野探幽に詩人の肖像画を描かせました。

 

丈山は自らを六々山人と号し、東本願寺や一休寺、蓮華寺の庭園も手掛け、

庭から獣を追い払う「ししおどし」を考案したほか、

煎茶の祖といわれることもあります(諸説あるそうです)。

まさに、羨ましい限りの悠々自適生活です。

当時、江戸幕府と朝廷の関係はぎくしゃくしていて、

丈山は、幕府が後水尾天皇上皇)を監視するために送り込んだ、

スパイであるという説もあるそうですが、こちらは眉唾です。

 

約30年間、詩仙堂で静かな後半生を送った丈山は、

生涯独身を通し、90歳の天寿を全うしました。

立身出世から身を遠ざけ、自由闊達な隠居生活をおくった丈山は、

わたしにとって、密かな憧れの人物でもあります。

もっとも、わたしは妻子を抱え、到底悠々自適とはいかないので、

庵を営むことはできず、還暦以降も元気で働くつもりです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。