さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

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謝罪の儀式

よしをです。

先日、広島県の選挙違反事案にからんで、現金を受け取った某市長が、

頭を丸刈りにして謝罪会見に臨み、その後辞職しました。

なぜか、日本では反省の意思を示すために、

頭を丸めることがおこなわれています。

過去には、年金未納が発覚し、民主党代表を辞任した菅直人氏も、

頭を丸めてお遍路の旅に出ました。

 

そもそも、丸刈りは反省した証になるのでしょうか。

丸坊主になったところで、いずれ髪は生えてくるし、

もし丸坊主を謝罪の証とするのであれば、

その人物にとって大切なものとは髪であり、

しかもその「反省の度合い」は、

数か月で元に戻る程度のものということになってしまいます。

 

古代中国では犯罪者の髪を剃ることがおこなわれていました。

三国志の時代、蜀の馬謖が独断的な采配が原因で街亭の戦いに敗れた際、

諸葛亮によって馬謖には死罪が命じられましたが、

馬謖の幕僚全員は連座制で剃髪の刑を命じられたという記述があります。

また江戸時代の日本では、

男性の犯罪者の場合は、見せしめのために丸刈りにされたほか、

姦通罪の女性の髪はそり落とし、親元に引き渡されました。

 

日本では本来、頭を丸めるというのは、仏門に入ることを意味します。

したがって、当時の人びとが反省の意味で頭を丸めることはなく、

武士に限らず庶民も、頭を丸めることについて拒否感があったのは事実です。

武士が強い反省の意思を表すとすれば、切腹するということになります。

 

落語「大山参り」は、剃髪をテーマにしています。

町内衆が、商売にご利益がある相模国の大山石尊大権現に

お参りに行くことになりました。

いつも道中でケンカがおこったり、トラブルがあるため、

あらかじめ、「ケンカをしたものは丸坊主にする」という取り決めをしました。

すると案の定、

帰路の宿で熊五郎という暴れ者が泥酔してケンカを始めたため、

皆で寝ている熊五郎丸刈りにして、

翌朝、先に江戸への船に乗ってしまいました。

遅れて目が覚めた熊五郎は、自分が丸刈りにされたことを知ると、

陸路で急いで江戸に戻りました。

そして、「町内の皆は船の事故で死んでしまった。自分だけが生き残ったので、供養のために頭を丸めて出家するのだ」と伝えると、

町内衆の女房を全員剃髪して尼さんにしてしまいました。

そこへ町内衆が帰ってきて、大騒動になるというお話です。

 

丸刈りやスキンヘッドが、

ファッションの一部として認知されている現代においては、

刑罰や戒めの意味は希薄です。

しかし現代日本で、選挙違反の政治家や不倫した芸能人などが、

いまだに一様に丸刈りをして反省の意をあらわすのは、

切腹の代替行為であり、一種の禊のように考えられているからだと思います。

 

似て非なる例えをするならば、

タトゥー(刺青)に対する受け取る側の感覚の変化です。

古代中国では、刺青は犯罪者の証でした。

楚漢時代の将軍・黥布は、顔に刺青をいれられた犯罪者でした。

日本では、江戸時代になると、粋の象徴として派手な彫物が流行しましたが、

犯罪者の証拠としての刺青もありました。

有名なのは、犯罪者の腕の二本線の刺青ですが、

そのほかにも、多くのバリエーションがあります。

額に刺青が入れられるケースもありました。

額の真ん中に三本線のアディダス柄や、「✖」とか「犬」なんて入れられたら、

恥ずかしくて、とても外を歩けません。

 

わたしは古い人間なので、刺青の入った人には違和感があるのですが、

スポーツ選手に刺青を入れた選手が多いからでしょうか、

若い人たちには拒否感が希薄のように感じます。
それも時代の流れなのかもしれませんが、

たとえばオーストラリアやニュージーランド先住民族の選手が、

民族的・呪術的な意味をこめて刺青を入れることと、

欧米の選手がファッションのために刺青をいれるのでは、

決定的に意味が異なることについて、

若い人たちにも理解してほしいと思っています。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。