さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

時事放談と人生幸朗と父の思い出

よしをです。

これまでのブログの記事を掘り起こしてみると、

歴史や国内外の情勢などの話題に偏り、

表題の「卒サラ」とは変化してきているように感じています。

こういう分野に興味があったのかと、われながら驚き半分ですが、

これまで書き続けてきて積み上げた結果と、納得する次第です。

もし、こんなブログに興味がある人がいらっしゃれば、

これからも、ときどき覗いてみてください。

 

父は、日曜の朝に放送していたTBSの「時事放談」を、

欠かさず視聴していました。

朝日新聞出身の細川隆元氏と、評論家の藤原弘達氏の対談番組で、

2人が政局に鋭く切り込む姿が新鮮でした。

 

特定の子ども向け番組を除いて、

基本的に、テレビのチャンネル権は父親にありました。

当時、小学生のわたしは、こんな硬派な番組を、

わけもわからず、強制的に見せられていたわけですが、

子どもながらに、感心して見ていたように記憶しています。

この番組は、ラジオ番組としてスタートし、

当初、細川氏の相方は、日経新聞出身の小汀利得氏だったそうですが、

わたしは、細川・藤原ペアの記憶しかありません。

対談は、細川氏の話を受けて、藤原氏が答えるというイメージがあり、

藤原弘達氏のダミ声や独特な笑い声が、強く記憶に残っています。

 

細川隆元氏は肥後藩の細川家の末裔であり、

政治評論家の細川隆一郎氏は甥、細川護熙元総理の縁戚にあたります。

一方、藤原弘達氏は、創価学会批判の旗手として知られる右派評論家です。

この2人の組み合わせは、保守的な傾向が強く、

現代の、左派傾向が強い情報系番組とは一線を画しています。

「サンモ二」や「ニュース23」のTBSが、

当時、このような硬派な対談番組を放送していたというのは、

ある意味、驚きです。

 

この番組では、議論がヒートアップしたところで、

女性アナウンサーが茶菓子を出すのですが、

今回はどんなお菓子が出るのかが、小学生のわたしの楽しみでした。

 

父は漫才も好きで、とくに人生幸朗のファンでした。

人生幸朗は、生恵幸子との夫婦漫才で、大阪を拠点に活躍しました。

幸朗が歌謡曲や世相に難癖をつけ、

幸子が甲高い声でツッコミをいれる、「ぼやき漫才」のスタイルで、

幸朗が、「まあ、皆さん、聞いてください」と観客に語り掛け、

しゃべりに熱が入ってくると、顔を紅潮させ、身振り手振りを交えて、

口角泡を飛ばす勢いで、がなり立てるのですが、

幸子がそれを制し、「この、泥亀が!」など、鋭い合いの手を入れるのです。

人生幸朗・幸子の漫才は、幸朗の「責任者、出てこい」の決め台詞で締め、

漫才の終わりに、2人は丁寧に観客に挨拶します。

このことによって、かれらの毒舌漫才は決して下品に見えません。

 

幸朗は弱視だったため、

牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡を手放せませんでしたが、

同時にそれは、かれのトレードマークになりました。

眼鏡を外したまま、楽屋で芸人仲間と大皿の寿司を出前でとった際、

幸朗は、皿の底に書かれた海老の絵を本物と勘違いして、

必死に箸でつまもうとしていたというエピソードも残っています。

 

幸朗は生涯で三度結婚していて、幸子は三番目の妻でした。

気難しく奔放な性格で、幸子も苦労が絶えませんでした。

しかし、晩年は、無償で各地の刑務所を慰問するなど、

社会貢献にも熱心で、幸朗の没後、幸子も慰問活動を引き継ぎました。

 

時事放談しかり、人生幸朗・幸子の漫才しかり、

かれらの世相の切り口には、

高度成長期を象徴する、明るさや健全性があったように思います。

論壇と演芸は時代を象徴する写し鏡なのでしょう。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。