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独裁政権の崩壊

よしをです。

1989年のクリスマスに、ひとりの独裁者が銃殺刑に処されました。

ニコラエ・チャウシェスクは、

1918年にルーマニアの農民の子どもとして生まれました。

11歳のときに、当時、非合法の共産主義に触れ、魅せられていきます。

1932年に、非合法のルーマニア共産党に入党し、

ルーマニアソビエトに占領されるまで、刑務所と潜伏活動との、

往復生活を続けました。

 

ソビエトの傀儡として、ルーマニア共産党政権が誕生すると、

チャウシェスクは、ナンバー2に収まり、

このころ、獄中で出会ったエレナ夫人と結婚しました。

1965年に、共産党トップのゲオルゲ・デジが死去すると、

チャウシェスクは、かれの後継者となり、

以後、ルーマニア大統領として長期政権を担うことになりました。

 

政権当初、かれの政治は、外交では西側諸国に対しても開放的であり、

日本に来訪したこともありました。

このように見ていくと、ユーゴスラビアのチトーを想起しますが、

時が過ぎ、かれの政権運営は、どんどんおかしなことになっていきます。

 

経済発展のためには、人口増加が必要だとして、

人工中絶の禁止政策や、離婚禁止、

多産家庭への経済援助政策が採用されました。

しかし、経済的理由などから、捨て子や育児放棄が増え、

ストリートチルドレンが1万人をこえるなど、

社会問題化するほど深刻になってしまいました。

 

何の実績もない親類縁者を、政権中枢や利権団体に送り込み、

国民に対して、中国や北朝鮮がそうしているように、

チャウシェスクへの個人崇拝を強要するようになりました。

その結果、政治家や有能な官僚、軍人などが、国を見捨てて、

こぞって亡命する事態になりました。

体操選手のコマネチ氏も、アメリカに亡命しています。

 

ルーマニアは、西側から130億ドルの融資を受けていましたが、

経済政策の破綻による財政悪化により、返済不能になりました。

外貨獲得のために、やむなく農作物を根こそぎ輸出に回すと、

国内で、燃料不足や飢餓が蔓延しますが、

チャウシェスクは一切顧みず、

首都ブカレストに、「国民の館」という宮殿の建設をすすめました。

国民の窮乏を大統領が知らないのではないかと考えた民衆が、

かれに手紙や嘆願書を書くと、

秘密警察が人物を特定して逮捕し、国民の不満を封殺しました。

 

1985年に、ソビエトペレストロイカが始まりますが、

ルーマニアは開放政策には向かわず、孤立化しました。

チャウシェスクは、権力を手放そうとせず、

ますます、個人崇拝と秘密警察による監視を強化していきます。

しかし、1989年に、東欧各国で革命が起きると、

潮流はルーマニアにも及び、チャウシェスク夫妻は捕縛されました。

そして、1989年のクリスマスの日、

チャウシェスクは、妻エレナとともに、公開処刑されました。

 

チャウシェスク夫妻の処刑シーンは世界中に放映され、

北朝鮮金日成・正日親子は、震え上がったといわれています。

 

恐怖と粛清が支配する独裁政権であっても、

命を懸けて立ち上がる民衆の前では、たやすく崩壊することを、

ルーマニア革命は示しました。

ただし、あれから30年が経ちましたが、

朝鮮半島では、なんの変化も起こっていません。

 

チャウシェスクの独裁のシンボルであった「国民の館」は、

今では、ルーマニア最大の観光名所になっているそうで、

これが唯一の、チャウシェスクの貢献といってもいいかもしれません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。