さあ来い 卒サラ!          ~悔いのないセカンドライフを目指して~

起業とか資格とか。趣味や思い出話など いろいろランダムに

伝統は現代に

よしをです。

天下統一を目前にして、豊臣秀吉の視線は、大陸に注がれていました。

秀吉は、朝鮮に特使を派遣して、

朝鮮国王の宣祖の参内を、二度三度と要求しました。

朝鮮は、秀吉の天下統一の祝賀として、通信使の日本派遣を決定し、

正使に黄允吉、副使に成均館、金誠一、許筬の3人を選任しました。

名目上は祝賀でしたが、朝鮮侵攻の真偽を確かめるのが目的でした。

 

楽隊を加えた200人の一行は、首都の漢城(ソウル)を出発し、

海路日本に向かいました。

通信使一行は、京に到着しますが、

秀吉は、小田原包囲戦の真っ最中で、あいにく留守でした。

一行は3か月以上、その場で待たされ、

戦勝して帰京した秀吉と、ようやく会見することができました。

 

聚楽第での秀吉の様子を、随行した柳成龍が記録しています。

なかでも、「秀吉に抱かれた小児(鶴松)が小便を漏らして、秀吉が笑う」、

という記述が有名です。

秀吉は、通信使一行が、服属するために来日したものと考えていました。

そこで、秀吉は、朝鮮国王宛ての親書を渡し、

明を征服するために先導するように求めました。

 

秀吉との面会を終え、通信使一行が帰国すると、

王との御前会議において、正使の黄允吉は、「兵乱が起こる」と断言し、

副使の金誠一は、

「秀吉は出兵しない。黄の発言は大げさである」、と主張しました。

 

正使と副使が正反対の主張をしたのには、背景がありました。

官僚が、東人派と西人派にわかれ、党争が激化していたのです。

東人派の金誠一は、持参した秀吉の国書が、「人をあなどるもの」として、

ニュアンスが異なる内容に勝手に改竄し、

西人派の黄允吉に対抗するためだけに、正反対の主張をしたのです。

 

協議の結果、東人派の金誠一の報告が採用されたことによって、

朝鮮は、国家の危機を見誤る結果になりました。

 

この頃、朝鮮国内では、派閥党争のほかにも、

官僚の不正が絶えず、両班とよばれる地主層の苛烈な取り立てによって、

政治が乱れ、国民生活が困窮していましたが、

秀吉の出兵は、国内に決定的な混乱を導く結果になりました。

 

日本軍と、朝鮮・明軍が、それぞれ糧秣を現地調達したため、

極度の食糧不足のために、農民が耕作を放棄して流民化し、

国王の政治に不満をもつ両班や、

被差別階級や盗賊による叛乱蜂起が相次ぎました。

また、戦時下の混乱により、宮殿や官庁、牢獄などに対して、

略奪や放火、破壊がおこなわれました。

朝鮮王は、日本兵の首に賞金をかけたため、

罪のない領民や流民が偽首狩りの犠牲になって、首なし死体が散乱するなど、

荒廃した状況も伝えられています。

 

このような混乱を招いた原因は、

もとはといえば、通信使が派閥争いに明け暮れ、

情報を混乱させたことにあります。

 

のちにかれらは、李朝滅亡時にも、同じような混乱ぶりを見せました。

朝鮮国内は、支配者層が権力闘争に明け暮れ、

官僚の不正や地主層(両班)の横暴によって、人心が荒廃していました。

宗主国である清朝の衰退や、ロシアからの外圧などの、

世界情勢の変化に対応できず、国王や政権中枢部は思考停止に陥り、

ついには、日韓併合により、国体を喪失したのです。

 

現代の韓国は、過去の失敗から何かを学んだのでしょうか。

 

国が一丸となって難事に当たることが苦手な国民性は、

朝鮮民族の伝統なのかもしれません。

残念なことです。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。