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張飛の妻と2人の娘

よしをです。

三国志の英雄・張飛といえば、豪快無双の武将として知られ、

三国志演義には、

豪勇の士である反面、思慮が浅い酒乱として、やや滑稽に描かれ、

その容貌は「身長8尺、豹頭環眼、燕頷虎鬚」と描写されています。

 

主君の劉備、義兄の関羽とともに、戦国の野を駆け巡った張飛でしたが、

関羽の戦死ののち、弔い合戦への出陣の準備中に、

部下の張達、范疆によって暗殺されてしまうという、

あっけない最期を迎えます。

ある日、張飛の陣営から上奏文が届いたと聞くなり、

劉備は、「ああ、張飛が死んだ」と嘆いたといわれています。

劉備は日頃から、張飛軍紀に厳しすぎる態度を諫め、

「罰を与えた者を傍に置くな」と、

部下による造反や暗殺の可能性を示唆していましたが、

劉備の懸念は現実になってしまったのです。

 

張飛が暗殺された原因については、

正史(三国志)には詳しい記述がないので、よくわかりません。

三国志演義によれば、

張飛は張達と范疆に対して、「3日以内に全軍に白装束を用意しろ」と命じ、

準備ができないという申し入れに対して、

泥酔していた張飛は、2人を棒で殴ったうえ、

期日までに用意できなければ斬首すると伝えました。

追い詰められた2人によって寝込みを襲われ、

張飛はあっけなく命を落とすことになったと描写されています。

 

わたしは、張飛三国志演義で描写されているような粗暴な人物ではなく、

知勇兼備の武将だったと想像しています。

張飛は一兵卒ではなく、

実際に大軍を率いて、縦横無尽に戦いを繰り広げてきた将軍です。

部下に厳しいというのは、

別の見方をすれば、規律に厳格であった証拠ともいえます。

わたしは、実際の張飛は、緻密な軍略家であり、

三国志演義のイメージとは、まったく違う人物だったと思うのです。

 

張飛の正妻は夏侯氏といい、曹操の武将である夏侯淵の姪でした。

敵方の将軍の身内とどうやって知り合ったのかといえば、

正史には、劉備らが曹操に破れて流浪生活を送っていたころ、

張飛が山で薪を拾っているときに、夏侯氏を見初めて妻にした」

とあります。

要するに、張飛が一目ぼれをしたということのようで、

張飛は当時33歳、夏侯氏は13~15歳だったとされています。

 

夏侯氏張飛との間に2男2女の4人の子をなし、

2人の娘は、劉備の息子である蜀の2代目皇帝劉禅の妻になりました。

どういうことかといえば、

最初の娘が劉禅の妻(敬哀皇后)となり、若くして亡くなると、

2番目の娘も劉禅に嫁ぐことになったのです。

末娘は張皇后と呼ばれました。

 

蜀は魏の攻勢を受けて滅亡しました。

劉禅は降伏し、混乱の中、李昭儀という妾は自害しています。

劉禅は捕らえられて家族とともに洛陽に移送され、

のちに先祖代々の土地である幽州安楽県で安楽公に封じられました。

 

その後、劉禅の子の代になって、

内乱に巻き込まれて、劉氏は滅亡しています。

張皇后は洛陽までは劉禅に同行したという記録が残っていますが、

のちにいつ亡くなったかは記録がありません。

 

 

今回も、このブログを読んでいただき、ありがとうございます。